脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

僕は今後も当分は東京で消耗していく予定です。

イケダハヤトさんが高知県に移住するらしい。どのような背景から移住を決断したのかそのあたりの事情はよく知らないのだけど、たしかに東京の家賃は高いので気持ちはわからないでもない。

 

イケダハヤトは高知県に移住します。ブログタイトルを変えました→ : まだ東京で消耗してるの?

 

海外移住ネタと同様に、地方移住ネタも「生活コストを下げる」という文脈ではよく話に上がる。この手の海外移住とか地方移住に積極的にチャレンジする人も多いけど、僕自信は今のところ、それほど積極的に移住を考えてはいない。今後もしばらくは、東京で消耗しながら生きていく予定である。

 

やろうと思えば、僕も家賃が安い地方で暮らすことはできる。会社勤めをしている人に比べれば、はるかにやりやすいとも言える。仕事はパソコンと回線があればできるようなものばかりだし、買いたいものはAmazonで買えばいい。大自然の下でブログや本の原稿を書き、プログラミングをしたらさぞ気持ちがいいことだろう、と妄想したことがないわけではない。

 

しかし現実には、地方暮らしに踏み切ることができずに終わる。家賃は高いし大自然に触れることもできないのだが、それでも東京には捨てがたい大きなメリットがある。それは「とにかく人が多い」ということだ。もう、ホントにアホみたいに多い。それゆえ、逆に他人への関心がなくなる。東京で、他人の行動をいちいち気にしていたらキリがない。東京の住人は、いい意味で、放っておいてくれるのだ。コミュニケーションがめんどくさくない、と言い換えてもいい。

 

これが地方だと、人が少ないので必然的に「人の行動」が目立つようになる。僕はもともと地方在住で、大学進学がきっかけで東京に出てきたのだけど、地方にいた時は「◯◯くんのお兄ちゃんが国道を歩いていた」とか「△△くんが✕✕マートにいるのを見かけた」とか、そういう「他人の目撃情報」をよく耳にした。別に犯罪に手を染めたわけではないので目撃情報が共有されても実害はないのだろうけど、そういう「見られてる」という空気がとにかく息苦しかった。

 

いわゆる「みんなと同じこと」をする限りにおいては、地方もそんなに生きづらいものではないと思うのだけど、ちょっとレールから外れたことをやろうとすると地方ではすぐに目立ってしまう。東京なら、平日の真っ昼間に会社に行かずに街をふらふらしていても噂になることはないが、同じことを地方でやると即座に噂になる。平日の昼間に街中を徘徊するのが至高の喜びである僕にとって、それはちょっとしんどい。

 

「都会がいいか地方がいいか」という問題は、「会社員がいいかフリーランスがいいか」みたいな問題と同様に、一方的に結論が出せるような問題ではない。考慮する要素は多数あり、それぞれに対して双方にメリット・デメリットがある。それゆえ、どちらがよいかは価値観に応じた総合判断しかありえない。金銭的には東京のほうが消耗するのはほぼ間違いないだろうけど、精神面まで含めた消耗の度合いが東京と地方でどちらが大きいかは、その人の考え方次第ということになるだろう。

 

とても面白い実験だと思うのでイケダハヤトさんにはぜひ頑張っていただきたいと思う。東京から応援しています。

 

田舎暮らしができる人 できない人 (集英社新書)

田舎暮らしができる人 できない人 (集英社新書)

 

 

『企業家サラリーマン』:四半世紀以上前の脱社畜小説

社畜」という言葉は、一説によると安土敏氏の造語だと言われている。安土敏氏は大学卒業後住友商事に入社し、後にサミットストアに出向、1981年に経済小説家として作家デビューしている。安土氏のデビュー作『小説スーパーマーケット』は、伊丹十三監督の『スーパーの女』の原作にもなった。

 

最近は、そんな安土敏氏に興味を抱いて何冊か著書を読んでいるのだけど、先日読んだ『企業家サラリーマン』がすばらしかったので紹介したい。本書の初版は1986年で、言わば四半世紀以上前の本ということになるのだが、内容はほとんど古くなっていない。この本は、一言で言うなら社畜小説だ。安土氏が「社畜」という言葉を実際に使用するのはもう少し後になってからなのだが(『ニッポン・サラリーマン 幸福の処方箋』がおそらく初出。1992年出版)、問題意識は既にこの小説の時点でほぼ完成していると言ってよいと思う。

 

企業家サラリーマン (講談社文庫)

企業家サラリーマン (講談社文庫)

 

 

本小説の主人公中里未知雄は総合商社・日西物産に勤務するサラリーマンである。25年間にわたるサラリーマン生活の中で、彼の住む世界は完全に会社の中だけになっていた。順調に主流派として出世街道を走っていた彼は、根回しや社内政治がモノを言う会社社会にどっぷりと浸かってしまっている。

 

そんなある日、日西物産がアメリカのレストランチェーンを買収するという話が持ち上がり、中里はそのフィージビリティ・スタディを担当することになる。その仕事を通じて、中里は自分の過去と向き合い、かつて自分がサラリーマンではなく企業家(起業家)の心を持っていたことを思い出す。会社社会という狭い人間関係と独特のルールに支配された擬似社会ではなく、本当に社会のためになることをすべきではないか――それに気づいた彼は、サラリーマンとしてではなく、企業家としてアメリカのレストランチェーンの仕事と向き合うことを決意する。あらすじはざっとこんなところである。

 

僕はあまり付箋を貼りながら本を読んだりする習慣はないのだけど、本書を読んでいて思わず付箋を貼ってしまったところがある。以下の記述だ。

 

要するになにもかも会社中心と考えるからいけないのだ。この世の中には会社以外にもいろいろな価値がある。むしろ、日西物産という世界など世の中全体から見ればまったくとるに足らないチッポケな存在と考える方が客観的には正しいに違いない。そんなチッポケな存在を世界全体と錯覚して悩んだり苦しんだりするのは滑稽だ(p161より)。

 

安土氏には失礼だが、思わず自分で書いたのかと思ってしまうぐらい、僕が日頃思っていることがそのまま書かれていた。そうなのだ。会社の世界を自分の世界すべてだと思い込んでしまうことほど、つまらないことはない。別に会社中心で考えなくても、世の中と向き合う方法は山ほどある。

 

本書の出版された1986年と違って、今はインターネットやスマートフォンが普及し、個人が会社を使わずに社会に直接何かを働きかけることは何倍も簡単になっている。それでも未だに、会社という狭い社会に囚われてしまう人はいる。それは非常にもったいないことだと思う。

 

本書の出版から四半世紀以上がたったが、この本の問題意識自体は今もそのまま通用する。そういう意味で、本書は全然古くなっていない。絶版で入手しづらいのが悲しいところなのだけど、古本なり図書館で借りるなりして読む方法はある。働き方に悩む人には、おすすめできる一冊だ。