脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「ゆるい就職」は、今の日本だと全然ゆるくない。

「ゆるい就職」が話題である。

 

ゆるい就職:若者が正社員で働くのは「負け」 慶大助教が提案 - 毎日新聞

僕が「ゆるい就職」を許せない理由 - 言いたくないけど、僕が青二才です

 

僕は元々週休3日制論者なので、世の中全体がゆるい労働へとシフトしていくのは好もしいと思っていたりもするのだけど、この慶大特任助教が言うところの「ゆるい就職」というのはそういう社会政策的な話ではないらしい。記事によると、「週休4日で15万円」の仕事を若者に紹介する人材派遣サービスがはじめるのだそうだ。つまり、今の日本社会で「ゆるい就職」を目指すという話だ。

 

ちょっと考えてみるとわかるが、これはそんなに「ゆるい」話ではない。 今の日本社会は正規雇用で働くことが前提に社会制度が設計されている。そこで月収15万(社会保険なし)で生きるのはなかなか厳しい。大学を卒業してから10年ぐらいであれば持久戦が可能かもしれないが、それからさらに20年、30年と持続可能なのかと問われると、リスクは過大だと答えざるを得ない。

 

それでも週休4日15万円の働き方を選ぶ理由があるとしたら、それは会社に行かない残りの4日間で、会社以外からの収入確保を目指す場合だろう。理想を言えば、「ゆるい就職」をする時点で、既にある程度はキャッシュフローがあることが望ましい。たとえば、学生時代に学業の傍らはじめたプロジェクトが利益を出しはじめていて、今後も成長の見込みがあるというのであれば、「成長するまでの繋ぎ」として「ゆるい就職」をするのはアリかもしれない。果たして、これに該当する学生が何人いるのか。

 

個人的には、レールを外れた生き方をいけないことだとは思っていない。僕自身、もうとっくにレールは外れてしまっているし、レールを外れて後悔しているわけでもない。レールを外れたおかげで毎日がとても充実している。「今なら会社を辞める前の状態に戻れますよ」と言われても、丁重にお断りするだろう。

 

ただ、レールを外れて生きるためには、戦略が必要だということも忘れてはならない。レールがない以上、どこに向かうかは全部自分で決める必要がある。ただ決めるだけではダメで、適切に決める必要がある。たとえば、どうやって生活費を稼ぐかという問題。これは現時点における稼ぎ方だけでなく、その方法で持続的に稼ぎ続けられるのか、状況が変わった場合にどう対応するのか、といったことまで含めて考える必要がある。こういうことをリアルに突き詰めていくと、結構神経を使う。

 

そういった「レールを外れて生きるための戦略」という観点で、この「ゆるい就職」というやり方を検討してみると、どうもそんなにいい戦略な気がしない。レールを外れるにはやはり相応の「覚悟」が必要だと思うのだけど、この「ゆるい」という言葉からは全然「覚悟」が伝わってこない。実際、説明会の参加者の3分の1は「今後やりたいことを模索したい人」らしいのだが、明らかにこの人たちに「覚悟」はなく、「ゆるい」という言葉に惹きつけられている気がする。レールを外れさえすれば、ゆるく生きられるというのは大きな間違いだ。

 

残念ながら、「ゆるい就職」は今の日本だと全然ゆるくない。社会全体が「ゆるい労働」を許容するようになるのが理想なのは間違いないのだが、果たして実現する日は来るのだろうか。

 

古代から現代まで2時間で学ぶ 戦略の教室---生き抜くための勝利の全法則

古代から現代まで2時間で学ぶ 戦略の教室---生き抜くための勝利の全法則

 

 

情報収集手段をひとつに絞るのは愚策

以下の記事を読んで。

 

テレビを見ない人がいるなんてびっくり - Chikirinの日記

 

僕はほとんどテレビを見ないのだけど、それはあくまで「ほとんど」であって「まったく」見ないわけではない。ちきりんさん同様、リアルタイムで見る番組はほとんどないのだけど、毎週録画すると決めている番組もあるし、番組表を眺めていて気になった番組はとりあえず録画している。情報の収集手段としてテレビを遮断したわけではない。

 

それと、テレビ以外の情報収集手段として、最近になってまた新聞を取り始めることにした。新聞については以前「新聞はとにかくインタフェースが悪すぎる」という記事を書いたことがあり割と否定的だったのだけど、今ではちょっと考えなおして結構いいものだと思っている。家でダイニングテーブルに広げて読む分にはあの大きさでもいいと思うし、そうやってスペースを最大限に使って読むことを考えると、あの新聞のレイアウトもだいぶ使い勝手がいい。なので、最近は朝と夕方に時間をとって、結構楽しく読んでいる。

 

ネットの「一部」にはテレビや新聞は情弱が読むもの、情強はネットしか見ない、みたいな謎の風潮があるような気もするけど、これはだいぶアホらしい考え方だと思う。よく問題になるテレビの「やらせ」であるとか新聞の「偏向報道」と類似の問題は当然ネットにだってあるし、むしろネットのほうが激しいようにすら思える。

 

ネットの最大の問題点は、「自分の思い通りの情報が手に入ってしまう」ことだろう。たとえば、原発が危険だと思う人は「原発 危険」とか「放射能 真実」といったワードを検索窓に入れれば簡単に原発の危険性を説く記事を見つけていくらでも怖がることができるし、逆に原発が安全だと思う人は「原発 デマ」とか「放射脳」といったワードで検索して、いくらでも安心することができる。こうなると、もう情報収集は自分が「何を信じたいか」といった信念だけの問題になってしまう。

 

もちろん、ネットは速報性という点で優れているし、ネットでしか見れない情報というのも当然あるわけで、やはりネットが役に立つことには変わりがない。ただ、ネットに情報収集手段を「絞る」必要性はまったくない。新聞でもテレビでも、あるいはラジオでも雑誌でも、さらには井戸端会議でも、使えるものはなんでも使っていけばいいのではないだろうか。

 

「テレビはウソしか言わない」というのは「しか言わない」という点で間違っているし、「朝日新聞は日本を陥れることしか書かない」というのはやはり「しか書かない」という点で間違っている。まあ、これらのメディアがそう言われても仕方がないようなコンテンツをたまに配信することは事実としてあるにせよ、それを選り分けて行くことこそが「メディアリテラシー」なのではないだろうか。思い込みで情報の入り口をひとつのメディアに限定して信念の世界に生きることに決めても、それは「賢い」とは言えないはずだ。

 

「選り分ける」技術の訓練という意味では、たとえば新聞を何紙も読み比べてみるというのも面白いのでおすすめだ。別に、何紙も購読しろと言っているわけではなく、図書館に行けばタダで読み比べることができる。同じ事実から新聞によって違う結論を導いているなんてことはしょっちゅうで、簡単に見つけられるのでそういうのを眺めるだけでも一歩引いた視点が手に入る。

 

池上彰の新聞勉強術 (文春文庫)

池上彰の新聞勉強術 (文春文庫)