脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

出版不況の原因は「活字離れ」ではない:『「本が売れない」というけれど』(永江朗)

本郷三丁目駅の近くに、ブックス・ユニという小さな本屋がある。学生時代、たまにこの本屋で雑誌を買って退屈な授業中に読んだりしていたのだけど、今日前を通りかかったら9月30日で閉店という張り紙がしてあった。本を買ったことがある本屋が閉店するいうニュースを知ると、とても寂しい気持ちになる。

 

リアルの書店が厳しいのは、別にこの店に限った話ではない。ここ数年で、有名な本屋が何軒も潰れた。1999年に2万2000店ぐらいあった本屋は、2015年に1万3000店ぐらいまで減っている。実感としても、昔ほど街で小さな本屋を見かけることが少なくなったように思う。

 

出版不況、本が売れないと叫ばれて久しいが、そもそもの原因はどこにあるのだろう?すぐに考えつくのが、「本を読む人が減った」という答え、つまり「活字離れ」だ。最近はアニメにゲーム、インターネットと娯楽のバリエーションも多くなっている。本を読む人が減っているのでそのぶん本が売れなくなったという仮説は、なんとなく正しいように思える。

 

ところが実際には、出版不況の原因を単純に活字離れに求めることは正しくない。そのことは、この本を読むとよくわかる。現実に起こっている問題はもっと複合的だ。

 

 

筆者によると、「活字ばなれ」への言及は1973年の時点で既にあったらしい。「最近の若い者はけしからん」という言い分と同じで、「最近の若い人は本を読まない」という苦言はもう最近ではなく何十年も前に言われていたようだ。読書週間を調査する『読者世論調査』の結果を見ると、書籍読書率はここ数十年でずっと45%前後で変わっていない。45%という数字はあまり高いとは思えないが、そもそも本は昔からそのぐらいしか読まれなかったということである。今も昔も、本を読む習慣がある人は継続的に本を読んでいて、その習慣が最近になって突如なくったというわけではない。

 

ではなぜ街の本屋は潰れ、出版業界は不況だと言われるのだろうか。それは、新刊を買う人が減っているからだ。本書のデータによると、ブックオフで取引される本の数や、図書館で貸し出される本まで含めて考えると総数はほとんど減っていないようにも見える。ところが新刊一冊あたりの販売数は下落の一途を辿っており、それを補うべく新刊点数が鬼のように増えている。

 

さらに、出版不況という意味では雑誌が売れなくなったことによる寄与度が非常に大きい。雑誌にはそれ自体の売上だけでなく、広告という重要な収益寄与がある。雑誌が売れなくなると、出版社の被る打撃は大きい。さらには、雑誌が売れなくなると、雑誌が主力の小さな書店は打撃を受けて潰れる。書店が減るということはそれだけ販売チャネルが減るということなので、雑誌はますます売れなくなる。こういった負のスパイラルに陥っている。

 

Amazon電子書籍の影響も無視できない。再販売価格維持制度によって、本の定価の決定権がつねに出版社にあるという業界構造の問題もある。少なくとも、「本が売れない」原因は「活字ばなれ」なんて単純な話ではない。本書を読むとこのあたりがよく整理されて理解できる。

 

本書の筆者は、過去に7年間の書店勤務経験があるらしく、随所に本への愛が感じられる非常によい本だった。同じ本好きの自分としては、「なんとかできないものかなぁ」と嘆かずにはいられない。

 

『情報の文明学』(梅棹忠夫)の予言は現在も着々と実現されている

アルビン・トフラーが1980年に『第三の波』によって情報化社会の到来を予言する17年前、日本で既に情報化社会の到来を予言していた人がいた。民族学・比較文明学者の梅棹忠夫である。その世界的に見ても歴史的だといえる論文「情報産業論」が、本書『情報の文明学』に掲載されている。

 

情報の文明学 (中公文庫)

情報の文明学 (中公文庫)

 

 

本書は、色んなところで度々言及されるので、存在自体は知っていたのだが通読したのは実は今回がはじめてだった。

 

長い間手に取らなかったのは、恥ずかしながら「古い本だし、いまさら情報化社会とか言われても」という先入観を持っていたからだと思う。この手の「的中した予言の本」はたしかにスゴイことにはスゴイと感じるのだが、いわゆる「予言の答え合わせ」をしたところで著者の先見の明に感嘆するだけで、あまり得るところはない――愚かにも僕はそんなことを考えていたようだ。

 

ところが、実際に読んでみて、本書は単なる予言の書で終わるような本ではないことに気がついた。たしかに、本書では実際に起こった社会構造の変化(農業社会→工業社会→情報社会)が予想されており、そういう意味では間違いなく予言の書なのだが、驚くのはそういった完了した予言(成就した予言)だけでなく、今まさに実現しつつあること(現在進行形で成就しつつある予言)まで書かれているということだ。

 

たとえば本書では、情報産業化の波は、やがてその前段階の工業へも影響を及ぼし、いずれ工業の情報産業化が起こると予言している。これはつまり工業のデジタル化のことを言っており、最近流行りのインダストリー4.0であるとか、IoTであるとか、そういう社会の変化のことをズバリ指摘しているようにも読める。つまり、『情報の文明学』はまさに今起こっていることについて書かれている本だとも言えるわけで、本書を読んでも古いと感じないのは本書の予言が終わった予言ではなく、今まさに成就する途上にあるからなのかもしれない。

 

「情報産業論」が出た時点ではインターネットは存在しないので、もっぱら筆者が具体的に言及するのはテレビ放送などが多いのだが、ここで言われていることはインターネットにもほとんどそのままあてはまってしまう。むしろ、インターネットを想起したほうがよりクリアに筆者の主張が伝わってくるものすらある。

 

個人的に面白いと感じたのは、「情報の値付け」についての考察だ。情報はそれ自体が物質的な形をもたないので、情報はその内容を知った時点で引き渡しが済んでしまう。そういう意味では、情報を売り買いする場合は中身を知らずに買うことが前提になっている。つまり、情報を買う側はその情報が「このぐらいの価値があるはずだ」という期待に対して金を払うわけで、これは当然裏切られることもある。たとえば、有料noteの記事を買うことを想定してみて欲しい。記事の100円とか200円とかいう値付の根拠はどこにあるのかと言われると、正直よくわからない。それでも買う人はいるのだから、経済としては成立している。

 

筆者はこの情報の値付けの方法の一案として「お布施理論」というものを提案しているが、まさに有料noteの記事なんかはそういった原理で取引されているようにも見える。50年前の論文で、有料noteの値付けと本質的に同じ話が議論されているのだから面白くないわけがない。

 

他にも筆者の指摘は読んでいてはっとさせられるようなものが多く(たとえば、宗教は情報産業の前駆的形態である、など)、古いという理由で本書を読まないのは非常にもったいない。内容も決して難しいことはなく読みやすいので、未読の方はぜひ目を通してみて欲しい。