脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

『保育園を呼ぶ声が聞こえる』を読んで日本人の「権利意識」を恥ずかしく思った

『保育園を呼ぶ声が聞こえる』という本を読んだ。はじめに断っておくと、僕にはまだ子どもがいないので保育園のことで具体的な問題に直面したことはない。つまり、当事者としてはまだ離れた立場にいるのだけど、それでも本書はとても勉強になったし、読んでよかったと思っている。だから、このブログで取り上げたい。

保育園を呼ぶ声が聞こえる

保育園を呼ぶ声が聞こえる

 

本書は、ジャーナリストの猪熊弘子氏、哲学者の國分功一郎氏、保育士・ライターであるブレイディみかこ氏による鼎談書だ。第一部では主に日本とイギリスの保育園事情の違いについて猪熊氏とイギリス・ブライトン在住のブレイディ氏が対談を行う。第二部では國分氏が加わり、さらにテーマを広げて、日本の保育の未来について鼎談が行われる。

 

本書で一貫して主張されているのが、「子どもには適切な保育を受ける権利がある」というものである(帯にも大きくこの文言が書いてある)。日本で保育園問題といえば、多くの人が真っ先に待機児童問題を思い浮かべるのではないだろうか。はてな匿名ダイアリー保育園落ちた日本死ね!!!という記事を思い出す人も多いだろう。たしかに、保育園に預けたいのに預けられない、だから働きたいのに働けない……という怒りはもっともだし、待機児童問題が注目されることは重要なことなのだが、本書の視点はこれとは少し異なる。本書ではつねに、視点が保育園に子どもを預ける側ではなく、実際に保育園に預けられる「子ども自身」にある、と言ってもいいかもしれない。

 

保育園に預けられる子ども自身の立場から考えると、決定的に大事なのは保育園で受けられる教育の質ということになるだろう。たとえば、保育士ひとりあたりが見る園児の数は少ないほうがよい。本書にはこの保育士配置基準についてイギリスと日本の比較が載っているが、イギリスに比べると日本の数字はかなり多い(つまり、日本の保育士はひとりで何人もの子どもを見なければならない)。他にも面積であったり子どもが遊ぶ庭の有無だったり教育の質や子どもの安全に関わるファクターは色々あるが、いずれについても日本の基準はかなりギリギリである。問題なのは、これらのギリギリの基準が規制緩和によってさらに改悪されようとしていることだ。待機児童解消は解決すべき重要な課題だが、そのために保育の質を限界を下回る基準まで下げてしまっては、本末転倒である。何より、子どもの適切な保育を受ける権利が害される。

 

このように、本書では「子どもの権利」というのがひとつの重要なテーマになっているのだが、読んでいて興味深いと思ったのは、「権利」というものの捉え方が国によってだいぶ違うということだ。本書には國分氏が仕事の都合で1年だけイギリスに滞在した際に、現地の小学校に娘を預けた体験が載っているのだが、これが非常に面白い。英語が喋れず1年だけしか学校に通わない子どもの面倒を果たして学校がきちんと見てくれるのかと、國分氏は心配になったそうだが、この心配は杞憂で終わった。補助の先生をつける、特別に語学の補習授業を設けるなど、イギリスの小学校は「子どもが教育を受ける権利」を奪われないように、かなりしっかりと対応をしてくれたそうである。つまり、イギリスでは「権利」は徹底的に尊重され、その権利が履行されるために周囲は全力で動こうとする。「この子は子どもである。子どもには教育を受ける権利がある。外国から来たからという理由で教育が受けられないことがあってはならない」(本書130-131p)という姿勢なのだ。

 

対して、我が国はどうかと考えると、どうも「権利」というものに対して「堂々と主張するのはみっともない」という考え方がありはしないだろうか。それは「あの人は権利ばかり主張して……」という心無い発言だったり、有給の権利を行使しようとする人を疎んじたり、生活保護の権利を行使する人を下に見たりすることによく顕れていると思う。「権利」を持つ人が現れた際の反応が、全力でその人の権利行使をサポートするというものではなく、日本では舌打ちだったり蔑みだったりするのは、はっきり言って情けない。

 

本書は第一には保育園についての本であるが、それと同時に権利意識について考える本でもあると感じた。それゆえ、保育園問題についてまだ当事者であるという意識がない人でも楽しめるし、勉強になることは多いと思う。強くおすすめしたい一冊だ。

できる人をたくさん集めただけではチームはうまくいかない

こちらの記事を読んで、ちょっと思うことがあった。

d.hatena.ne.jp

「できる人はできる人と一緒に仕事したい」というのはたぶん本当だ。まだ会社で働いていたころ、採用担当者が「優秀なエンジニアをたくさん採用するためには、優秀なエンジニアをたくさん採用する必要がある」という循環論法っぽい話をしているのを聞いたことがあるが、たしかに優秀な人が在籍している会社はその事実だけで採用力が上がる。

 

実際に就職してから本当に一緒に働けるかはともかく、「あの優秀な◯◯さんが働いている会社なら、きっといい会社なのだろう」という推定には一定の納得感があり、かくして勢いのある会社には優秀な人が次々と集まり、逆に優秀な人が辞めていく会社からは人がどんどんいなくなっていく。たとえば、かつてのソーシャルゲーム系ネット企業が人材を大量に集め、そして大量に失っていった一連の流れの裏にはこの「できる人」の大移動があったのだと思う。

 

このように「できる人ができる人を惹きつける」ということもあって、企業はとにかく「できる人」を欲しがる。ただ、よく考えてみると、この「できる人」というのはだいぶ曖昧な言葉である。果たして、どのような人が「できる人」なのか、百人いれば百通りの「できる人」のイメージがありそうだ。そういえば昔、何かのワークショップで「優秀さとは何か」というテーマでグループディスカッションをしたことがあるが、その時も何をもってその人を優秀と見るかには、人によってだいぶ差があった。ある人はとにかく地頭の良さが大事だと言い(この「地頭の良さ」というのも何を指すのかだいぶ曖昧だ)ある人は言わなくてもわかる「察しの良さ」が大事だと言った。議論がどういう結論に着地したのかは、残念ながら覚えていない。

 

思うに、仕事の能力というのは単純には定義できないものがある。それでも、たとえばコードを書くのが他の人よりも圧倒的に早いとか、ある特定の領域について深い専門知識を持っているとか、オープンソースプログラミング言語のコミッターであるとか、ウェブサービスをひとりで全部まるごと作り上げて大量のトラフィックを捌いてたとか、こういう人たちは「できる人」として分類されることが多いような気がする。では、このような「できる人」を大量に集めれば、採用は成功かというと必ずしもそうではない。

 

会社でやる仕事のほとんどは、個人ではなくチームで遂行される。チームで仕事をする場合、個々人の能力が高いことはもちろん歓迎されるが、実はそれ以上にチーム内でうまく協力体制が築けるかが重要だったりする。いわゆる、協調性というやつだ。たとえば、あるチームで一人だけ能力が抜群に高くても、その人が他のメンバーとうまくコミュニケーションが取れずにチーム内の不和を誘発するようであれば、仕事が残念な結果に終わることも少なくない。僕はそれで頓挫したプロジェクトをいくつも知っている。逆に、個人レベルで突出した能力を保持している人がチーム内に一人もいなくても、チーム内の関係が悪くなければ、それで案外よい結果が出たりもする。

 

大事なことは、採用の際に「できる人」を採用することばかりに囚われて、個人としての優秀さばかりを見ないようにすることだ。仮に個人としていくら優秀であっても、会社のカルチャーにフィットしないとか、あるいは他のチームメンバーに害を与えそうであるとか、そういう場合にはいくら能力があっても、採用しないという勇気が必要だ。そんなことはあたりまえだと思うかもしれないけど、「優秀な人材を採用したい」という意識が強くなりすぎると、その人がチームや会社にどういう影響をあたえるか?という視点が抜け落ちてしまって「優秀だけど、チームにとっては害となる人」を採用してしまうことが少なくない。

 

個人的な経験では、「能力が突出して高い人」よりも「能力が高くなくても、その人がいるとチームの雰囲気がよくなる」ような人のほうが実は中長期的には組織によい影響を与えることが多いのではないかと思う。もちろん、能力が高くて、さらにはその人がいるだけでチームの雰囲気がよくなる人が理想的なのは言うまでもない。そういう人こそが、本当の意味での「できる人」なのだろう。でも、こういう人をたくさん集められる会社はどれだけあるのだろうか。

 

採用基準

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