脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

読んだ本の内容は忘れてしまってもいい

読書にまつわる意外とポピュラーな悩みに、「読んだ本の内容をすぐに忘れてしまう」というものがある。

 

そういう経験は僕にもある。たとえば、友人と雑談をしていて、友人が既に自分が読んだことがある小説を最近読んだ、という話をしてくる。「あ、それ、僕も読んだ!面白かった!」と反応するまではいいのだが、いざ小説の内容の話になってくるとほとんど何も思い出せない。面白かった、ということだけは覚えているのだが、それ意外の具体的なことがほとんど出てこないのである。もしかして、その小説を読んだという記憶は嘘だったのかと思い読書メーターで検索してみると、5年前にしっかり「読了」していることが確認され、自分の記憶力に自信がなくなってくる。

 

この傾向は30歳を超えたあたりから特に顕著になってきていて、この前なんて「読んだ」という事実自体まで忘れていて(読み終わり、初めて読んだと思って読書メーターに登録しようと思ったら「再読」扱いになっていて愕然とした)、どうせこうやって忘れてしまうなら、もう本なんて読むのはやめてしまおうかという気になったくらいだ。

 

よく、子供のころに読んだ本は忘れないというが、それもなんだか怪しいと最近は思う。インドア派小学生の子供時代にありがちな話だが、僕は小学生の頃にシャーロック・ホームズを夢中になって読んでいたことがあり、図書館で全集を全部読んだと記憶していた。ところが最近になってもう一度全集を読んでみたら、なんだか初めて読んだとしか思えないような短編が大量にあった。果たして、小学生の時に全集を全部読んだという記憶が間違いだったのか、あるいは読んだはいいが内容はほとんど忘れてしまったのか、どちらが正しいのかはわからない。いずれにせよ、人間は何でもかんでもずっと記憶しておくことはできず、時が経てばだいたいのことは忘れてしまう。それはきっと読書だって例外ではない。

 

読んだ本を少しでも覚えておく、ということをテーマにした本ではたとえば以下のようなものがある。 

読んだら忘れない読書術

読んだら忘れない読書術

 

 

この本に限らないのだが、たとえば「読書ノート」のようなかたちで読書とアウトプットをセットにしておくと忘れにくい、と説く読書術の本は多い。この手の本に触発されて、30を過ぎたあたりからは僕も読んだ本はできるだけ読書ノート等につけるようにしているのだけど、これはこれで結構たいへんである。読書ノートを作る前に、ついつい次の本を読んでしまう。それでまたノートを取るのをサボり、次の本を読む……と繰り返していくと、気づいたら読書ノートのノルマが10冊とかになっていてうんざりしてしまい、結局ノートはいい加減にしか取っていない。

 

ところが先日、読書術の古典ともいうべきショーペンハウアーの『読書について』を読んだらこんなことが書いてあって目が覚める思いがした。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

読んだものをすべて覚えておきたがるのは、食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ(p149)

 

これを読んだら、急に「本を読んで、その内容を覚えておこうとする」行為自体が、かなりどうでもいいものになってしまった。そうだ、本を読むという行為は、食事をする行為に近かったのだ。食べたものの大半がいずれ体の外から出ていってしまうように、読んだ本の内容もほとんどはどこかへ消えてしまう。それでも、日々の食事によってからだが変わっていくように、本を読み続けることで、少しずつ自分の精神が変化していく。大事なのは、本の内容それ自体ではなく、読むことを通じて(ほんの少しずつだが)自分を変えていくことにあるのだろう。

 

そう考えると、読書が途端に楽になった。食事の内容を逐一記憶にとどめておかないのと同じように、読んだ本の内容だって別に逐一記憶にとどめておく必要はない。もちろん、特別に美味しい食事に巡り合った時のことを覚えているように、素晴らしい本に出会えば結果的に内容をよく記憶しておくことにはなると思う。でも、記憶自体を目的にする必要はまったくない。

 

ショーペンハウアーの本には、他にも「ごく少数の、限られた良書だけを読み、何よりも自分の頭で考えることが大切だ」などと書かれておりドキッとする。また、匿名で他人を批判することの愚かさについても書かれており、これなどまさに現代のネット時代にピッタリのトピックだと言える。読書術についての本は未だに大量に刊行されるが、案外、こういうことを言っている人は少ない。こういった良書の内容なら、きっと忘れようと思ってもなかなか忘れないことだろうと思う。

「不公平」という思考は仕事が我慢大会になっているから出てくる

こちらの記事を読んで。

僕自身はタバコを吸わないし、仕事中に喫煙所に出入りする人を見て特に不公平だと思ったことはない。現在に至るまでいくつかの職場で仕事をしたが、休憩は各自の判断で勝手にとってよいというタイプの職場でしか働いたことがないのでこの手の話の実体験は無いのだが、友人の話なんかを聞いているとどうやらそういう思考を抱く人は少なからずいるらしい。

 

その人たちが仕事において同僚について「不公平」だと思ってしまうのは別にタバコ休憩だけではない。あの人だけ昼休みから帰ってくるのが遅くて不公平だとか、あの人だけいつも残業しないで早く帰って不公平だとか、あの人だけ有給休暇を全部消化していて不公平だとか、そういった「あの人だけXXXで不公平だ」という構文で不公平が表明されることはよくある。興味深いのは、この手の「不公平」という気持ちが発せられるのは、主に同僚という横の関係に対してであり、たとえば経営者と自分の待遇を比べて「不公平だ」という人はあまりいない。別に「経営者は従業員から搾取していい暮らしをしている」なんてステレオタイプ社会主義者めいたことを言うつもりはまったくないが、取扱いの差で言えば経営者と従業員のほうがはるかに大きいはずで、悪い経営者がいたらこういう状況を見てほくそ笑んでいるかもしれない。

 

こういった横の関係に対して「不公平だ」という不満を言う人の話を聞くと、中学生だった頃のことを思い出す。当時、○○君が校則で持ってきてはいけないものを持ってきていますとか、☓☓君が体育の時間の最初の運動をサボってましたとか、そういう告げ口を好んでしている同級生がいた。別に、○○君が校則で持ってきてはいけないものを学校に持ってきていたとしてもその彼が何か不利益を被ることはないし、☓☓君が体育の時間の最初の運動をサボったとしてもやはりその彼自身には何の影響もない。しかし、彼はきっとそういうのを見て「ずるい」と思ったのだろう。自分は校則をしっかり守っているのに○○君だけ「不公平」だ、自分はしっかり最初の運動をしているのに☓☓君だけ「不公平」だという思考法は、会社で同僚に対して「不公平」という感情を抱く人の思考法とほぼ一緒のように思える。「会社は学校じゃない」と昔誰かが言ってたような気がするが、こういう視点で見る限り会社も学校も違いはない。従いたくないルールを押し付けられて、みんなで嫌なことを時間になるまで我慢してやる場所であるという点において。

 

僕は正直、こういう怨嗟の言葉が渦巻いている職場は嫌な職場だと思う。できるならそういうところでは働きたくない。結局、こういうふうに誰かを「不公平だ」と思ってしまうのは、その仕事が自分にとって嫌なものであり、そういう嫌なものを自分は我慢してやっているのにあいつだけズルいという発想からきている。それは仕事が我慢大会になっているということであり、そういう仕事を長期的に続けてもたぶん明るい展望は開けない。

 

もし、「不公平だ」と思う同僚の行動ばかりに目が行ってしまうのだとしたら、問題があるのはきっと同僚ではなく仕事自体なのだと思われる。そういう環境で「不公平だ」という気持ちを撒き散らしても職場の雰囲気が悪くなるだけで抜本的な解決は望めない。それよりも、他人の気持ちが気にならなくなるぐらい主体的に取り組める仕事を探したほうが、幸せになれる確率は高いと思う。

 

読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー [セラピーシリーズ] (ムックセレクト)

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