脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

選挙カーで名前を連呼する行為は法律で禁止にすべき

統一地方選が近い。僕の住む地域でも区議会議員と区長の選挙があるので、連日のように選挙カーを見かける。そして、運動員や候補者が熱心に名前を連呼している。正直なところ、これはなかなか鬱陶しい。家の中にいても聞こえるので、心の平穏が乱される。

 

前々から、この手の「名前を連呼する行為」に得票率を上げる効果があるのか疑問に思っていた。個人的には、名前を連呼していた候補者にはむしろネガティブな感情のほうが高まっているので、逆に投票したくなくなる気がする。そこで候補者名の連呼と得票率の関係について調べてみたら、以下のような記事を見つけた。

 

www.asahi.com

 

そう、困ったことに名前の連呼には効果があるのである。先の記事によると、名前の連呼は候補者の高感度を上げることには寄与しないが、得票率を上げることには寄与するらしい。これは、なんとなく想像がつかないこともない。いざ投票所に行ってみたものの、特に投票しようと思える候補者がいない。そんな時は適当に入れることになるが、無意識的にせよ名前を聞いたことがある人に投票してしまうというのはいかにもありそうなことだ。

 

ただ、果たしてこれを選挙活動と言ってよいのだろうか。選挙カーがやったことと言えば無意識下にその人の名前を刻み込んだだけであり、政策を訴えたわけでも今までの実績をアピールしたわけでもない。候補者に対して、政策をアピールする場を保証することは大切だろう。しかし、選挙カーで名前を連呼することは、政策をアピールするのとは違う。ただ単に名前を人の脳に刻み込んでいるだけなので、やっていることはバニラの求人トラックと同じである。選挙カーでの名前連呼をNGにしても政策をアピールする場が減るわけではないのだから、騒音公害などの問題を考えると、これはもう禁止にしたほうがよいと思う。

 

そもそも、なぜ選挙カーは名前を連呼するのだろうか。これは、公職選挙法にこんな規定があるからだ。

 

(車上の選挙運動の禁止)
第141条の3 何人も、第141条 (自動車、船舶及び拡声機の使用) の規定により選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない。ただし、停止した自動車の上において選挙運動のための演説をすること及び第140条の2第1項 (連呼行為の禁止) ただし書の規定により自動車の上において選挙運動のための連呼行為をすることは、この限りでない。

 

つまり、走行中の選挙カーの上で許される選挙運動は連呼行為のみなのである。「せめて政策を訴えてほしい…」と思っても、走行中の選挙カーから選挙演説をすることは禁止されているからそれをやったら公選法違反になってしまう。公選法のこのあたりの条文を読んでみると、思った以上に選挙運動には融通がきかないことがわかる。

 

選挙カー上の名前連呼は、それが法律で許された数少ない選挙運動手段であることと、得票のために一定の効果があるという事実に鑑みると、残念ながら多くの候補者はやらざるを得ないということになってしまうだろう。選挙は票の総数がすべてであるから、仮に100人に「うるさい、迷惑」と思われても、その行為によって票が200票増えるというのであればやるという判断をすることになる。もっと言うと、その場では「うるさい」と思った人でも、いざ投票に行くと潜在的にその人の名前を覚えていて(でも「うるさい」と思ったこと自体は忘れていて)名前を書いてしまう、なんてことは普通にあると思われる。

 

こういう構造になっている以上、やはり選挙カーで名前を連呼する行為は法律で禁止にしてしまうべきだ。有権者に実害はないし、禁止になってしまえば候補者だってやらなくてすむ。140条の2第1項の本文では禁止されているのだから、ただし書を削除すればいい。禁止にしたところで、政策をアピールする機会が奪われるわけではない。もっというと、選挙カー自体を廃止にしてもいいのではないか。そのかわりとしてたとえば選挙公報を充実させるなど、候補者がもっと政策の中身をアピールできるような選挙に変えていったほうが候補者だって、有権者だって得をすると僕は思う。

 

町長選挙 (文春文庫)

町長選挙 (文春文庫)

 

 

校則がアホらしいということはたぶん教師もわかっている

こちらを読んで。

headlines.yahoo.co.jp

 

校則によく現れる謎の文言に「〜らしい」とか「〜にふさわしい」というものがある。僕が通っていた公立中学校の生徒手帳にも、「中学生にふさわしい服装」とか「中学生にふさわしい髪型」といった表現が頻出していて、中学生の時は大いに反感を覚えた。この手の玉虫色の表現を使えば、反抗的な生徒をいかようにでも指導することができる。こういう校則を一方的に押し付けてくる教師は、とんでもなくズルい存在だと当時は思った。

 

その頃からもう約二十年ぐらいが経過したことになるが、いま思い返しても、やはりこの手の校則はアホらしいと思う。冒頭に挙げた記事を読んで、真っ先に湧き上がってきたのは「まだやってたのか」という呆れと、現役の中学生や高校生に対する同情だ。それと同時に、僕は生徒だけでなく、教師に対しても同情した。中学生だった頃の僕は教師一人ひとりが本気でこの手の校則の妥当性を信じ込んでいて、それを生徒に対して一方的に押し付けてきているという図式でしか事象を理解できていなかったが、そういう単純な話ではないということは、もう年齢的には彼らの側にいるのでわかる。この手の校則がアホらしいなんてことは、教師自身もたぶんわかっているはずだ。もちろん、本気で校則の妥当性を信じ込んでいる教師だっていると思うが、少なくとも教師全員が校則を心から妥当だと思っているわけではないことは容易に想像できる。

 

このように、個人の見解と組織の見解に相違が生じることは、別に教師という職業に限ったことではない。たとえば、顧客からの質問に個人的に考えていることとは違う「会社としての公式回答」を使って返事をしたり、あるいは就活生からの質問に対して、人事の指導の下で「その会社の人間としてふさわしい」回答を作り上げたりすることはよくある。組織で働く以上、自分の考えたことや思ったことをそのまますべて好き勝手に話すわけにはいかない。これは時に大きなストレスの原因になる。

 

特に教師という職業の場合、一人の先生が勝手に校則の妥当性を判断して「あれには意味がない」などと言うことは絶対に許されないだろう。そんなことをすれば生徒指導の先生の顔を潰すことになる。もしかしたら生徒からは人気が出るかもしれないが、その分、職員室には居づらくなる。同僚に疎まれながら仕事をし続けるのはどんな職業であってもつらい。だから、多くの教師は組織としての見解を遵守するほうを選ぶ。今だからわかるが、教師は別に生まれながらにして教師だったわけではなく、頑張って教師という役割を演じているのだ。だから硬直的で、アホらしい校則を生徒に押し付けなければならない。これは結構、かわいそうな役回りだと思う。

 

もっとも、だからと言ってアホらしい校則をアホらしいと批判するなと言っているわけではない。むしろ、大いに批判したほうがいいと思う。なぜなら「一般人(学校の外にいる人)も大勢批判している」という事実は、教師が組織の規則に立ち向かう際に、強い材料になりうるからだ。一個人が組織の見解に反旗を翻すには、相応の武器がないと難しい。単に「私はどうかと思います」と言うだけでは(特に若い先生が言っただけでは)決定権のある年配の先生たちを説得することはできないだろう。でも、そういった勇気ある教師の背後にいる「その他大勢」の存在を感じさせることができれば、規則が動く可能性もある。

 

だから、今日も声を大にして、アホらしい校則には文句を言おう。もしかしたら、それが生徒を助けるだけでなく、先生を助けることにつながるかもしれない。

 

教師の心が折れるとき 教員のメンタルヘルス 実態と予防・対処法

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