脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「友達の作り方がわからない」という人は、とりあえず知り合いをたくさん作るといい

「社会人になってから、友達の作り方がわからなくなった」

 先週末、久々に会った大学時代の友人と飲んでいたら、そんな話になった。

 

自分で稼ぐようになったいい年齢の大人が「友達の作り方」で悩んでいるというのはなんだかちょっと情けないように聞こえなくもないが、意外とこれと似たことを感じている人は少なくないようだ。そういえばまだ学生だった頃にサークルの飲み会で、会社員のOBから「本当に損得勘定抜きで付き合える友達が作れるのは大学生のうちだけだ」という説教をされたことがあったが、要はこれも「社会に出たら友達の作り方がわからなくなった」(ように感じる)ことから出たアドバイスなのだろう。

 

思うに、会社に入って働くようになったらもう学生時代のような友達は作れないと断言してしまうのには抵抗がある。そうやって会社に入って働くことを不可逆な変化だと見ること自体がそもそも僕の思想とかけ離れているし、それに学生時代につくった友人とは本当に損得勘定抜きで付き合えるのかというと、必ずしもそうではないような気がする。結局は人と人との相性の問題なので、環境と状況が許せば仲良くなれる人とは年齢関係なく仲良くなれるだろうし、逆に仲良くなれない人とはどんな状況に置かれても仲良くなれない。

 

ではなぜ、結構な数の人が「社会人になったら友達の作り方がわからなくなった」などと感じるのだろう。これは結局、職場というコミュニティの性質に依るところが大きい。職場というコミュニティは基本的に内側に閉じていて、大学のサークルほど気軽に抜けたり入ったりすることもできず、流動性が低い。「構成員がそれぞれ気持ちよくすごす」ことよりも「決められた枠組みに基いて日々経済的価値を生み出す」ことに最適化されているので、「居心地が悪い」ことは経済活動に大きな影響がなければ真剣には対処されない。居心地が悪ければすぐフェードアウトし、付き合う相手も柔軟に入れ替わっていた学生時代と同じノリで職場で友達を増やすことなどそもそもできるようになっていない。比べること自体が間違っている。

 

結局、職場で学生時代と同じように友達ができないというのはあたりまえで、できる人がいるとしたらそれはもう本当に特別な才能を持った人だけに限られる。普通の人は、そんな特別な才能は持っていない。だから、職場で仲のいい人がまったくできないからと言って、自分の側に原因があるなどと思ってはいけない。原因はあくまで環境にある。

 

そういうあたりまえの違いを認識上で、学生時代が終わってもまだまだ友達を作りたいと考えるのであれば、方法は単純である。友達を作りたいと思うのだったら、まずは知り合いをたくさん作るようにするといい。そうすれば、そのうちの一部はきっと友達になれる。大切なことは、人と付き合うときに最初から友達になることを目的にしないことだ。世の中にはいろんな価値観があるので、合わない人とは何をやっても合わない。そういう人とは知り合いのままでいたほうがお互い幸せだ。逆に友達になれる人とはそれほど意識しなくても仲良くなれる。ここで無理に友達を作ることだけを追い求めて会う人全員と仲良くなろうとすると、必ずどこかで辛くなって破綻する。

 

知り合いをたくさん作るには、とりあえず会社以外のコミュニティに顔を出すのがおすすめだ。会社以外に所属するコミュニティが思いつかないという人はいろんな意味でまずいので、勉強会でも趣味の集まりでもネットのオフ会でもなんでもいいから「仕事とは違う繋がり」を持つべきである。世界は広いので、会社の外のコミュニティで知り合いを作っていけばどこかで自分と合う人に会える可能性は高い。会社の中に探索範囲を限定してしまうのはおすすめしない。会社はその性質上構成員の価値観をひとつの方向に集約させるので多様性が担保されず、合わない場合トコトン合わないということになりかねない。

 

「友達の作り方」なんて、基本的にはわざわざ意識するようなものではない。そのために自分のコミュニケーションのやり方や物事の捉え方を無理に変えたりするよりも、自然に合う人とよい関係が築けるような環境に身を置くこと考えた方がいい。無理に自分を曲げて上辺だけのつきあいを増やしても、それは友達を増やしたことにはならないだろう。自然にできることを自然のままやるのが一番だ。

 

君に友だちはいらない

君に友だちはいらない

 

 

コミュニケーションツールとしての「麻雀」

先日、伊坂幸太郎の『砂漠』という小説を読んだ。

 

砂漠 (新潮文庫)

砂漠 (新潮文庫)

 

 

いわゆる青春小説の類で、仙台の大学に通う5人の大学生の話なのだけど、本書の特徴として話の端々に「麻雀」が出てくる。阿佐田哲也の『麻雀放浪記』で使われているような牌活字まで出てきて割と本格的だ。

 

僕の学生時代でも、麻雀は重要なコミュニケーションツールだった。麻雀を通じて結構な数の人と知り合い、仲良くなった。麻雀がなかったら、僕の人生は変わっていたかもしれない。そもそも、一緒に起業することになった友人の一人と知り合ったのも麻雀がきっかけだったような気がする。

 

実際、麻雀はコミュニケーションツールとして優れている点が多々ある。

 

まず、ゲームをするために4人必要だというのがよい。4人集めなければならないとなると、必ずしも全員が全員お互いに知り合い同士というメンツにはならない。時には「知り合いの知り合い」が入ることになり、そのおかげで自然に知り合いが増えていく。

 

また、ゲーム時間が長いというのもよい。「2時間の飲み会でちょっと喋っただけ」という場合と違い、卓を囲んでそれなりに長い時間を過ごせばもうかなり親密になったような気がしてくる。

 

そして、これこそが最大の利点だと思うのだが、麻雀をしている間は「無理に喋らなくてもいい」のがよい。ゲーム時間が長いので、麻雀中は自然としょうもない話をダラダラとすることになりがちだが、あくまでメインは麻雀なので、話に積極的に参加するのが面倒だと思ったら麻雀に集中してればいい。基本は麻雀に集中して、適当に話したくなったら話せばいいから、コミュニケーションを取る・取らないに選択の自由がある。場がシーンとしても別にそれはそれでいいし、「何か話さなきゃ!」と話題を無理に探す必要もない。沈黙状態になっても、麻雀自体が普通に楽しいから苦痛にならないのだ。

 

これが飲み会とかだと、そうはいかない。飲み会は名前こそ飲み会になっているが、何も喋らずに目の前のお酒にだけ集中すればよい、というようにはならない。一時的に料理やお酒の話題に逃げることはできるが、長くは続かない。飲み会は「コミュニケーションそのもの」を楽しめない人には結構つらい。

 

もちろん、麻雀には問題もある。そもそも、前述したメンツが4人必要であるとか、ゲーム時間が長いというのは利点であると同時に欠点でもある。むしろこれらは時間のない会社員にとっては、ほとんどの場合には欠点となるはずだ。ルールが複雑で参入障壁が異様に高いというのも欠点だ。教えてくれと頼めば喜んで教えてくれる人はいるだろうけど、そのままカモにされる危険性も高い。

 

このような欠点はあるにせよ、やはり僕は麻雀が好きである。もっとも、最近は全然やっていない。いや、「最近」どころではないかもしれない。10年はさすがに行かないと思うが、5年ぐらいはやってないのではないだろうか。役を忘れてるということはないだろうけど、点数計算は正直ちょっとあやしい気がしている。