脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

アフターコロナの社会で「優秀」な人はセルフマネジメントに長けている人

緊急事態宣言を受けて、すっかり家から出ない生活が定着した。仕事はだいぶ前から完全にリモートワークになっているので、日用品の買い物と、運動不足解消のために散歩をする以外の理由では、もうほとんど家の外に出る機会はない。

 

僕は元からインドア派だったこともあり、新型コロナウイルスが流行する前からそもそもそんなに頻繁に外出をするタイプではなかったのだが、「外出できるけどしない」ことと「そもそも外出できない」ことには大きな差がある。徐々に慣れてきた部分もあるものの、やはりどこにも出かけられない今の状態はストレスが溜まる。

 

問題はこの生活がいつまで続くのかだが、緊急事態宣言自体はGW明けまでとされているものの、正直なところ、それでスパッとすべてが片付いて元の生活に戻れる見通しは暗いようである。僕は感染症の専門家ではないので適当な見解を述べることは差し控えたいが、ざっくりとネット上に漂う言説を見てみると、最短でも半年という話から、長いものになると10年かかるというものまであった。10年はさすがにどうかなぁと思いながらも、少なくとも2020年中はずっとコロナ禍が続くであろうことは、覚悟しなければいけないのかもしれない。

 

コロナ禍が長引くと仮定しての話だが、そうなった場合、社会も今の状態を「一時的なもの」ではなく「恒常的なもの」として受け入れなければならなくなる。たとえば、仕事はもうリモートワークが基本ということになり、むしろ出社して働くことのほうが例外になるだろう。これにより、今までと仕事のやり方がガラリと変わる。

 

企業は当然ながら、リモートワークで成果が出せる人材を積極的に採用したいと考えるようになるはずだ。今まではなんとなく「コミュニケーション能力が高い」人が多くの企業で「優秀」とされていたと思うが、そういう人の市場価値はいったん下がることになるかもしれない。もちろん、オンラインでも的確に必要事項をわかりやすく伝えられて仕事が回せるような、本当の意味でのコミュニケーション能力が高い人は今後も重宝されるだろう。しかし、なんとなく周囲のノリに合わせるのがうまいとか、場を盛り上げるのに長けているだけといった人は、アフターコロナの社会ではなかなか成果を出すのが難しくなる。

 

そんなアフターコロナの社会で間違いなく鍵になるスキルだと僕が思うのがセルフマネジメント能力だ。もう仕事は家でするしかない以上、外部からの強制力で仕事をするのには限界がある。正直、リモートワークはサボろうと思えばいくらでもサボれてしまう。たまにはサボるのもよいと思うが(仕事中にネットサーフィンをするぐらいのことは、別にオフィスで働いていた時にだって誰もがやっていたはずだ)ここで際限なくサボってしまうか、うまく切り替えてやるべきことはしっかりやれるように自分を律することができるかが、アフターコロナの社会で成果を出せるかどうかの鍵になる。

 

これは別に仕事の話に限らず、たとえば大学受験や資格試験など勉強の世界でも、セルフマネジメント能力が今後は成功の可否を決める鍵になるだろう。これまでは、家で勉強に集中できないという人には、カフェで勉強するとか、予備校の自習室に行くとか、そういう逃げ道があった。しかし当分はもう、そういう場所で勉強をするわけにはいかないだろう。なんとか自分の部屋で集中して勉強する方法を見つけるしかないということになる。この状況は、言ってみれば全員が宅浪を強制されているような状況であり、他の世代と比べるとかなり異例な状況だ。もしかしたら、来年の東大合格者は、どの世代よりもセルフマネジメントに長けた人たちになるのかもしれない。

 

僕自身は、自分のセルフマネジメント能力は「普通ぐらい」だと認識しているのだけど、これから社会で活躍していく人たちがことごとくセルフマネジメントの鬼のような人たちになるであろうことを想像すると、凡人の自分としてはちょっと怖いような気もする。いずれコロナ禍が落ち着いた数年後に、そういう「セルフマネジメントの鬼世代」の人たちと、それ以外の世代の人たちは、果たして一緒に働けるのだろうか。もしかしたら、セルフマネジメント世代の人たちは、他の世代の人たちがあまりにも非効率的で、怠けすぎることにイライラするかもしれない。あの人たちは会社に集まって毎日なんやかんやと話し合ってるけど、何も決められないし、何の成果も出せていないと、正論で責められたら(前の世代の人たちは)何も言い返せないかもしれない。

 

そんな妄想をしながら、今日も元気に一日、家に引きこもった。変な世代間闘争が始まる前に、早くこの状態が落ち着くといいなぁ。

 

人生を変える行動科学セルフマネジメント

人生を変える行動科学セルフマネジメント

 

学習院大学卒業生代表による謝辞への違和感

学習院大学国際社会学部の卒業生代表による謝辞が話題になっている。

 

www.univ.gakushuin.ac.jp

 

話題になっているのは上のリンクの謝辞①のほうで、一部では「ロックだ」と褒める声も散見される。僕も読んでみたが、正直なところ、かなり違和感を覚えた。少なくとも、僕には到底「ロック」なものには思えず、むしろこの謝辞の背後に隠れている価値観のひとつは老害的ですらあると思う。

 

勘違いされそうなので少し詳しく書いておきたいのだが、僕は決して「謝辞なのに誰にも感謝をしていない」という点を問題だと思っているわけではない。むしろ「感謝する相手なんて思いつかない、強いて挙げるなら自分自身だ」という主張だけ取り出すなら、これはまあひとつの主張として成立はすると思う。たとえば、この人が「謝辞の挨拶になると、誰もが本当は感謝なんてしてない人に対しても上辺だけは感謝の言葉を述べる。それは茶番だ、こんなことには何の意味もない」とだけ書いて終わったというのであれば、儀礼的なものに対する純粋な反抗心を表明したものとして、もう少し好意的に受け止められたかもしれないと思っている。

 

ところが、この謝辞にはそういった「謝辞を述べる」という行為自体に反抗するだけにとどまらず、それとはまた違った価値観に基づく主張が挿入されている。

 

しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。

 

この2文が決定的に余計であり、これがあるせいで、この謝辞の「反抗」的な内容は台無しになってしまっている。

 

この2文を読む限り、この方は「権利」というものの性質について大きな勘違いをしているようだ。そもそも、権利は何かの対価として付与されるものではない。この謝辞では「素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった」と述べられているが、「おかしい」ことを「おかしい」と主張する権利は別に、素晴らしい学績を納めた人でなくても保障されてなければならないものだ。

 

たとえば、選挙権について考えてみて欲しい。現代の日本において、選挙権は何かの対価として付与されるものではない。かつては、選挙権を得るための条件として一定額の納税が要求されてきた時代があったが、今ではそうはなっていない。このことからも、権利が何らかの義務を果たさないと得られないという価値観で現代の民主主義は動いていないことが理解できる。

 

(↓詳しくは過去に書いた記事でも述べているので、興味ある方は参照してみてください)

 

dennou-kurage.hatenablog.com

 

そして、この「大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間」を批判するというのは、ブラック企業経営者であったり、あるいは政府の保守派のお偉方だったりが好んで行っていることでもある。こういった老害的な価値観が主張の裏に見えてしまっている時点で、僕にとってこの謝辞は「大きな違和感を覚えるもの」になった。

 

「自分の権利ばかり主張する人間」を批判する意見は、日常レベルではよく耳にする話ではある。だから、これを何の疑いもなく、あたりまえだと思っている人も多い。ただ、そこで思考停止してはいけない(「思考停止」することに対する批判はこの謝辞にも出てくる)。そういう「あたりまえ」を疑って解体していく姿勢を身につけることこそ、大学生が在学中にやらなければならないことだ。「思考停止」を批判するなら、こんな手前の部分で思考停止してしまわないでほしかったと個人的には思う。

 

ちなみに、一番感心したのはこの謝辞の内容よりも、この謝辞をそのままサイトに掲載した学習院大学である。

 

※謝辞①は内容が謝辞として相応しくないといった意見もありましたが、本学部は多様な意見を尊重しオープンな開かれた学部でありたいと考え、原文のまま掲載しております。

 

今後も、大学はそういった開かれが議論が行われる場であってほしいと思う。