昨日、片山さつき氏の人権天賦説放棄発言についての記事を書いたが、この記事に対する反応で、「権利行使に義務が伴うことは自然」という反論をする人がtwitterなどを見るとちらほらいたようである。
この、「権利行使には義務が伴う」というフレーズほど、誤解されているものは無いと僕は思う。今日は、その指摘をしておこう。
よくある間違いなのだが、この「権利行使には義務が伴う」というのは、「義務を果たすことによって、初めて権利が付与される」という意味ではない。権利行使を義務の対価と考えるのは、(近代の自由主義的な考え方の下では)正しくない。例えば、かつては日本にも一定額以上納税をしないと選挙権が無かったという暗い時代があったわけだが、「権利を義務の対価」と考えると、このような考え方を肯定することになりかねない。
「権利行使には義務が伴う」というのは、もっと単純な話である。例えば、僕には選挙権がある。投票所に行って、国政の代表者を決めるための投票を行う「権利」があるわけである。そして、国には、僕(をはじめとする国民)が選挙権を行使できるよう、選挙を法律に基づいて実施する「義務」がある。「権利行使には義務が伴う」というのは、この場合、僕が権利を行使できるように、国家が義務を負うということである。
国家対個人以外に、私人間の契約でも「権利行使に義務が伴う」という場面はある。例えば、僕がパン屋であんパンを買ったとする。その場合、僕はあんパンの引渡しを店員から受ける「権利」を有する。一方で、店員は僕にあんパンを引き渡す「義務」を負っている(民法では、この権利・義務を債権・債務という言葉で表現する)。
あんパンの例を聞いて、「お前があんパンの引渡しを受けるためには、お金を払わなければいけないはずだ。ほら、権利はやはり義務の対価だ」と言う人がいるかもしれない。これは、売買契約という双務契約の例だからたまたまそうなっただけである。例えば、贈与のような片務契約だったら、僕は一方的に権利だけ有して、相手方が義務を負うだけである。権利は義務の対価である、という考え方は、私人間においても一般化できるものではない。
このように、「権利行使に義務が伴う」というフレーズは、国家対個人、あるいは私人対私人という関係において、一方が権利を実現するために、片方が義務を負うということを表現しているに過ぎない。権利は義務の対価である、という意味でこのフレーズを用いているのであれば、それは大間違いだ、としっかり知っておいたほうがよい。
権利は義務の対価、という考え方を取る不都合については、昨日も指摘した通り「義務を果たしていないことを理由に、権利行使が不当に制限されうる」ことである。「してもらってばっかりで申し訳ないから、こっちもお返ししよう」という考え方は素晴らしいとは思うが、これは単なる道徳的価値観のうちの一つにすぎないので、憲法に書くようなことではないし、書いてはならないものだ。
もちろん、権利と権利がぶつかって、双方の利益調整を行わなければならなくなることはある。しかし、このことと、「権利が義務の対価だ」という間違った考え方の間には、何ら関連はない。この点を混同している議論も結構見かける。公共の福祉の議論から、権利は義務の対価である、という結論を導くのは大きな間違いだ。
権利は義務の対価であってはならない。この基本的なことを、もっと多くの人に知ってもらいたいと僕は思う。
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