脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

大事なのは「誰の」意見かではなく「どんな」意見なのか

スポンサーリンク

原発問題や領土問題、従軍慰安婦問題など、ネット上でよく論争になるトピックがある。これらの論争自体は別にいま始まったことではないとおもうが、最近はtwitterでこれらの論点に対する主張がRTされてきたりして、論争を目にする機会は昔に比べて多くなった気がする。twitterはブログ等に比べてお手軽だし、例えば自分で意見を表明しなくても賛成だと思うツイートをRTすれば意見表明に近いかたちになるので、議論に参加する敷居は、どんどん低くなっている。

 

広く議論がなされることは、決して悪いことではない。ただ、これらの議論が建設的かと考えると、どうもそうとは言えないものが多すぎるような気がする。そこで今日は、ネット上の不毛な議論について少し書きたいと思う。

 

そもそも、議論というのは「意見」と「意見」を戦わせるものである。しかし、ネット上ではこれがしばしば「人格」と「人格」を戦わせるものに変化してしまっている。例えば、以下はYahoo!知恵袋原発問題についてのトピックである。

 

脱原発派って馬鹿なの? - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1186470956

 

冒頭から「脱原発派って馬鹿なの?」という人格攻撃で始まっており、それに対して「原発推進派は、とても卑怯です。」という今度は原発推進派の人格を攻撃するレスがついたりしていて、荒れに荒れている。これはもう「意見」対「意見」ではなく「人格」対「人格」の戦いである。こんな話し合いをいくら続けても、不毛なだけなのは誰の目にも明らかだと思うのだが、残念ながらネット上の議論の8割ぐらいはこのレベルにとどまっている。

 

建設的な議論をするために僕が大事だと思うのは、「誰の」意見かではなく「どんな」意見なのかに着目することだ。「あの人が言ったから正しいのだろう」、「あの人が言ったからきっと馬鹿げた意見なんだろう」という姿勢では、意味のある議論は期待できない。発言者に必要以上に注目してしまうと、議論は容易に人格攻撃に変化して、単なる喧嘩のレベルまで落ちてしまう。純粋に意見の中身に集中して、発言者への言及は極力避けるようにしたほうが、議論の建設性は高まるだろう。

 

穿った見方かもしれないが、ネット上で不毛な議論をしている人たちの目的は、問題の答えを出すことではなく、相手の人格を貶めてスッキリすることなんじゃないかとすら思えてしまう。「論破」が必要以上に持て囃されたりすることからも、意見をよりよいものにする、という目的での議論が行われていないことはよく分かる。こういう議論は、悪い議論の典型であり、こんなことに時間を使うのは非常にもったいないことだ。

 

欧米の、建設的な議論ができている企業などでは、会議で侃々諤々の大議論をした後、一緒に仲良くランチに行ったりする、という話を聞いたことがある。これは、議論が「人格」対「人格」を戦わせる場ではなく、「意見」対「意見」を戦わせる場として正しく機能しているということだ。こういうことは、僕たちも見習って行かなければならないと思う。

 

意見の中身に着目した、人格攻撃を目的としない建設的な議論の数が、少しでも増えて欲しいと切に願う。

 

---

 

『図解 フィンランド・メソッド入門』(北川達夫,フィンランドメソッド普及会)という本の中には、フィンランドの子どもたちが作った「議論における10のルール」というものが載っている。フィンランドでは、議論の仕方についての教育がきちんと行われている。日本人は議論が苦手な国民だと言われるが、そもそも日本では、議論の仕方について、学校ではほとんど教わらない。日本の学校でも、もっと議論の仕方について学ぶ機会を増やしてもいいのではないか、といったことを考えさせられる本である。

 

図解 フィンランド・メソッド入門

図解 フィンランド・メソッド入門