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脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

誰にも必要とされなくたって、人間は生きていて構わない

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昨日の夜、ぼーっとtwitterタイムラインを眺めていると、情熱大陸に作家の田中慎弥さんが出ているという話が流れてきた。普段はほとんどテレビを見ないが、田中さんには強い興味を持っていたので、僕は慌ててテレビをつけた。

 

田中慎弥さんといえば、誰もが一年前の芥川賞受賞時における不機嫌会見を思い出すだろう。「都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」という挑発的な会見時の言葉は、各種メディアで放送され波紋を呼んだ。田中さんは新人賞を受賞するまでの14年間、アルバイトも含めて一度も働きに出ることなく、小説一本に打ち込んできたという、凄まじい経歴の持ち主である。そんな田中さんの作家生活を知ることができた今回の放送は、とても興味深いものだった。

 

今時、携帯電話も持たず、執筆もパソコンやワープロを使わず2Bの鉛筆で行うというスタイルで、なんだか昭和の文豪を見ているような気分にさせられる。偏屈といってしまえばそれまでだが、「世の中」とは向き合わなくても「小説」とは真剣に向き合おう、という彼なりの創作に対する信念やこだわりのようなものが僕には感じられた。

 

僕が特に感銘を受けたのは、番組の末尾で田中さんがインタビュアーに語っていた内容だ。今日は、このことに触れるために、このエントリを書いている。僕の書き起こしだが、ここに引用したい。

 

村上春樹さんが今いなくなったら、世の中、世界中で困る人がたくさんいますけど、僕がいなくなっても、そんなに極端に困る人はたぶんいない。喜ぶやつはいるんですよ、たぶん。だから、よく『人を悲しませたくないから死なない』とか言う人がいるんですけど、『喜ばせたくないから死なないんだろ、絶対死んでやるもんか』って思うんです」

 

「田中さんが死んでも困る人がほとんどいない」というのが事実かはともかく(少なくとも、僕は彼の小説をもっと読みたいので死なれたら困ると思う一人である)「誰かに悲しまれるから」ではなく「誰かを喜ばせたくないから」生きてやる、という姿勢はなかなか考えさせられるものがある。就職活動をしていたり、実際に会社で働いていたりすると、「お客様のために」とか「社会のために」とかそういった美辞麗句に嫌でも接することになるが、これは必ずしも絶対ではない。「誰かのために」何かをする必要性なんて、別にないのだ。

 

例えば仕事を選ぶ際などに、「誰かに喜ばれたい」とか「誰かの役に立ちたい」といったことを言う人がいる。これはこれで非常に立派なことだと思うが、「人間は、絶対にどこかで誰かの役に立たないといけない」ということはない。「社会貢献」は、できたらいいと思うが、これも必須ではない。別に、誰にも必要とされなくたって、人間は生きていて構わないのだ。

 

田中さんのように、特に誰かを喜ばせよう、社会貢献をしようという気持ちが無くても、それが実際には誰かの役にたつということもあるわけで(僕は彼の小説を読んで、いい時間をすごさせてもらったと思った)、「人の役に立ちたい」という気持ちを無理して持つ必要なんてない。逆に、こういった気持ちに押しつぶされてしまって、「人の役に立てていない」自分に嫌気がさしてしまう、というケースもあるだろう。そうなるぐらいだったら、はじめから「人の役に立つこと」に、そこまで重きを置かないほうがよいと僕は思う。

 

基本的には、生きていれば、それだけで胸を張ってよい。もちろん、他人に迷惑をかけるのは感心しないが、積極的に「誰かのために」何かをしなければならないということはない。昨日の放送では、そんなことを考えさせられた。

 

共喰い (集英社文庫)

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