脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「プロフェッショナル」とは何なのか

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「プロ意識を持て」とか、「プロとしての矜持を」といったような言い回しがある。例えば会社で、仕事へのコミットが足りない社員を説教したりする際に、こういった表現が持ちだされたりすることがある。

 

この場合の「プロ」とは「プロフェッショナル」のことであると思われるが、じゃあ「プロフェッショナルとは何のこと?」と問うと、面白いぐらい答えはバラバラだ。僕は、こうやって曖昧なまま「プロフェッショナル」という言葉を持ち出すのには反対である。この言葉には、「社会人」という言葉と同じぐらいの曖昧さがあり、社員に理不尽な仕事を課す場合のワイルドカードとして使われることも少なくない。

 

実際、「プロフェッショナル」とは何なのだろうか。僕は以前、これについて色々と考えてみたことがある。その過程で、元マッキンゼーコンサルタントである波頭亮氏が書いた『プロフェッショナル原論』という本を読んでみたりもした。

 

プロフェッショナル原論 (ちくま新書)

プロフェッショナル原論 (ちくま新書)

 

この本はものすごく格調高い「プロフェッショナル論」なので、読むとクラクラとしてしまう部分も少なくないのだが、1つ特徴的なのは、本書では「プロフェッショナル」に「サラリーマン」を含んでいないということだ。「プロフェッショナル」として仕事をするのは、医者や弁護士、コンサルタントのような民法で言うところの「委任契約」で仕事をする人たちのことで、この本の定義どおりに行くと、サラリーマンのような「雇用契約」で働く人たちは、そもそも「プロフェッショナル」ではないということになる。この本の定義に従えば、会社で「プロ意識が欠如している」と言われても、「そんなの当たり前です」と答えることになる。この立場には、概ね賛成できる。

 

もちろん、他の定義もある。波頭氏の例はプロフェッショナルの該当範囲をトコトン限定するものだったが、これとは逆に、「お金をもらって仕事をする以上は、プロフェッショナルである」といったような、プロフェッショナルの定義を最大限に広げる立場もある。この場合は、たとえアルバイトであっても「プロフェッショナル」ということになる。「バイトでも、金をもらっている以上はプロとしてきっちり仕事しろよ」という発言はこの立場によった場合の典型的なものだ。

 

僕は、この立場には賛成できない。「お金をもらっている以上、対価の分は働く」という話は、「プロ意識が云々」という話を持ち出すまでもなく、雇用契約の内容に含まれているからだ。これを超えて、プロ意識を理由に契約の範囲外のことまで要求されるのだとしたら、それは単なる契約違反である。「プロ意識」を持ち出すことで、金銭的報酬以上の働きをさせるというのは、「やりがい」をエサに金銭的報酬以上の働きをさせる「やりがい搾取」と同じ構造にあると僕は思う。

 

このように、「プロフェッショナル」にも色んな捉え方がありうるわけで、相手がどういう意味で「プロ意識」という言葉を使っているのかは、一度考えてみたほうがよい。そして、多くの場合「プロ意識」を持ちだした説教はインチキだ。「プロ意識」の名のもとに、会社への無限のコミットを求められているのだとしたら、一度自分のもらっている給料の額がそれに見合うかを考えてみるとよいだろう。