前回のエントリに引き続き、「成長」の話。
意識の高い学生とか、あるいは意識の高い会社員に多いと思うのだけど、とにかく「自分は成長がしたい」「人生の意味は成長」といったように、成長意欲が旺盛な方がいらっしゃる。
向上心は、その人の内に閉じているだけであれば何ら問題はないので、こういう人たちは引き続きモチベーションを高く保って生きていって欲しいと思うのだけど、このような成長第一主義な方々にいつも聞きたいと思っているのは、「成長した結果、結局どうなりたいんですか?」ということだ。
成長というのは、基本的には手段であるはずだ。例えば、大学に受かりたいと思ったとする。でも、そのためには学力が足りない。だから、一生懸命勉強して、それこそ「成長」して、大学に受かるだけの学力を手に入れる。こんなふうに、最初に何か成し遂げたいと思っていることがあって、それを成し遂げるための能力が今足りないから、「成長したい」という話になるのが順序的には自然なはずである。
でも、意識の高い、成長意欲旺盛な成長第一主義な人たちを見ていると、これが逆転しているように見えてしょうがない。成長第一主義な人たちに、ゴールを聞くとおそろしく曖昧な答えが返ってくる。「社会起業家を目指す」とか「世界をもっとよりよい場所にする」とか、そんな抽象的な目標で、具体的なアクションに繋がるとは到底思えない。なんだかよくわからない抽象的な目標を達成するために、「日々成長のために頑張っています」と言われても、その人がどこに行くべきなのかは誰にも分からない。意識の高い学生・会社員が、なんだかズレていてあさっての方向を向いているような気がするのは、これが原因なのではないだろうか。
「成長」を殊更強調しなければならないというのは、もしかしたらやるべきことが定まっていないからなのかもしれない。自分がなりたいものは具体的には定まっていないが、それでも何者かにはなりたいと思っている。今の自分には決して満足していない。そういう焦りが、人を「成長」に駆り立たせるのではないだろうか。なんだか目的地がわからないのに、ひたすら都内の地下鉄を乗り継ぎまくっているような、そんな感じがして、これは傍から見ていると不安にさせられる。
「成長したい」と思っている人は、成長の結果どこにたどり着こうとしているのかを一度考えてみてはどうだろうか。もし、明確にたどり着く場所が答えられるのであれば、その成長はホンモノなのだと思う。どうか目標が達成できるように、日々成長していってほしいと思う。一方で、このあたりがなんだかふんわりとしていて、どこにたどり着くのかそこまではっきりしていないけど、とりあえず成長はしたい!と思っているのであったら、その人に真に必要なのはたぶん成長ではない。そもそも、そんな状態では成長は定義できない。まずは具体的な目標を見つけよう。目的地をはっきり定めていないのに、とりあえず電車に乗ってしまうというのは、なんというかものすごく乱暴で、そしてたぶん満足の行く場所にはたどり着けないと思う。
「成長」という言葉の響きに酔ってはいけない。何か目標を達成するのに足りない能力を埋めようと思えば人は自然に成長をする。逆に、成長が目的になってしまったら、たぶんその人は永遠に成長できない。
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