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脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

東大に推薦入試なんていらない

時事ネタ
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東大、推薦入試導入へ=創立以来初、筆記なし—後期日程2次、5年後めど試行
http://jp.wsj.com/article/JJ10051869106655554020016462172552464398961.html
東大:推薦入試を検討…後期日程2次、5年後めど
http://mainichi.jp/select/news/20130313k0000m040086000c.html

 

入学時期変更の話といい、この推薦入学の話といい、最近何かとアグレッシブな施策を打ち出してくる東京大学だが、これに関しては正直変な方向に行こうとしているのではないだろうかと思わずにはいられない。

 

推薦入試導入の背景としてよく挙げられるのが、「筆記試験一本の学力偏重が、学生の多様性を無くしている」という話だ。乱暴な言い方をすれば、「勉強しかできない頭でっかちより、勉強はそこそこでも人間的に優れている人を取りたい」ということである。濱田総長の言う「タフな東大生」=「知力にくわえ、人間力と国際的な力を鍛え、たくましい交渉力と大胆な行動力を備えた学生」という定義からも、東大に同じ狙いがあることがわかる。

 

言いたいことは分からないでもない。僕も、一個人としては勉強以外に何もできず、極端に礼儀を失していたり話が通じない人とは関わりあいになりたくないし、確かに在学中、そういう人も見かけたことはある(もっとも、東大生は学年3000人もいるわけだから、東大生=頭でっかちでコミュ障、といったレッテル貼りはいかがなものかと思う。3000人も集めれば、色んな人がいるのは当たり前だ)。大学にとって、「学力だけでない、人間的にも立派な人を合格させたい」というのは叶うのであれば叶えたい望みであろう。

 

問題は、この「人間的に立派」をどう評価するのかという話だ。純客観的にこれを評価することは不可能である。課外活動をしていたから立派だとか、面接で非常に受け答えがはっきりしていたから立派だとか、そういう主観的な要素で人間力を判断してよいのだろうか。おまけに、高校の推薦という形をとれば、それは出身高校による差異が生まれる。筆記試験は点数という客観的な指標があるが、推薦入試の合格基準は、おそろしく不明確で、曖昧だ。

 

そして、僕が危惧しているのはこの曖昧さによって、東大の入試に存在していた「公平さ」が失われてしまうことである。世の中には不公平なことが山ほどあるが、筆記試験による大学入試は公平だ。高校中退をしていようが、それまで引きこもりであろうが、元暴走族のヘッドであろうが、試験で必要な点数を取れば合格できる。「東大で勉強をしたい」という人には、公平に門戸が開かれているのだ。

 

今回の件は、最初は後期日程に限定するという話なので、直ちに「勉強のみでは東大に入れない」ということにはならない。しかし、前期日程にも拡大していくという話もあるようだし、こういう選抜方法が増えていって学力試験のみの入学がより困難になるということはありえなくないだろう。実際、海外の大学は推薦状の割合が大きいし、東大は何かと海外基準に合わせようと今躍起になっているので、推薦が入試のメインストリームにならないとも限らない。

 

推薦入試と同様、おそろしく不明確で、曖昧な基準によって合否が決定されるものに、就職活動がある。就職活動に翻弄される学生の様相は、ご存知の通りである。企業の求める曖昧な「人間力」や「コミュニケーション能力」を身につけるために、何をすればいいのか分からず学生は途方にくれる。就職に有利だから、という理由で一年生のうちから学生団体に入ってイベントを企画しようと躍起になる人もいる(ちなみに、こんなことをしても全然就職に有利にはならない)。これと同じことを、高校生にやらせるのが果たしていいのだろうか。そんなことするよりも、高校のうちは懸命に受験勉強をして、学力向上を目指したほうが何倍も健全なのではないだろうか。

 

「東大に入る」と色んな可能性が開ける。そして、この可能性への門戸は、公平に開かれているべきだ。過去に関係なく、その年の試験で合格点が出せた人なら、誰でも東大に入れるという形式は維持されなければならないと僕は思う。

 

普通の主婦だった私が50歳で東大に合格した夢をかなえる勉強法

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