脱社畜ブログ

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「風立ちぬ」感想:仕事に生きるということ

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宮崎駿監督最新作の風立ちぬを観てきた。

 

前評判がよかったことと、堀越二郎にもともと強い興味があったことから、鑑賞前の期待値はとんでもない大きさになっていた。こうやってハードルを上げていくと「それほどでもなかったな」とがっかりさせられるパターンが多いのだけど、本作はそうやって上げるだけ上げたハードルを悠々と超えるだけの感動を僕にもたらしてくれた。とてもよい映画だった。宮崎駿監督の映画のなかでは、一番好きかもしれない。

 

僕はもともとジブリ映画の熱心なファンというわけではない。中には劇場まで観に行った作品もあるけれど、ここまで心に響いたものは今までなかった。ただ、子どもの頃にこれを見ても、きっとここまで心に響くことはなかっただろうと思う。今、このタイミングでこの映画を観ることができて、本当に幸せだった。

 

ここからはネタバレが含まれる。

 

本作は、零戦の設計者堀越二郎の生涯と、作家堀辰雄の代表作である「風立ちぬ」が融合された作品になっている。この融合が、本作にひとつの「葛藤」を発生させている。堀辰雄の「風立ちぬ」では、主人公は結核に侵された少女(節子)とともに、自分の仕事を半ば放って高原のサナトリウムで外界から隔絶された美しい時間を過ごす。一方、映画の「風立ちぬ」では、主人公(二郎)は結核に侵された少女(菜穂子)と恋に落ちているだけでなく、空に強い憧れを抱いた技術者でもある。菜穂子のために、自分のすべての時間を使うというわけにはいかない。

 

菜穂子が喀血した時も、二郎は列車に飛び乗って名古屋から菜穂子のもとへ赴くが、その日のうちに仕事のためにまた名古屋へと戻っていく。菜穂子のもとへ向かう列車の中で、二郎は仕事をしながら菜穂子のことを考え、計算用紙の上に涙を落とす。そこには、仕事と愛する妻との間で揺れ動く青年の姿がある。

 

ただ、この構造は終盤に近づくに従って、違う様相を見せるようになる。菜穂子が高原のサナトリウムを抜け出し、二郎のもとを訪れてから、二人は共に密度の高い時間を過ごすようになる。堀辰雄の「風立ちぬ」で書かれたサナトリウムでの二人の時間が、二郎の下宿先に出現し、ここで二人はともに空への憧れという夢を追っていく。「仕事か愛する妻か」という構造は、終盤には「夢を追う夫と、それを見守る妻」という構造へと変わる。

 

仕事か◯◯か、という対立構造を、僕たちはよく持ちだそうとする。こういう分け方は、あくまで物事の一つの見方でしかない。仕事をしているのも、あるいはそれと対立する◯◯をしているのも、結局同じ人物であることには変わりがない。

 

「仕事」という切り方も物事の一つの見方でしかない。二郎にとって、飛行機の設計は「仕事」であったが、それは同時に「夢」でもあった。結局、二郎は「夢」に生きたのであって、「仕事」に生きたのではない。ましてや愛する妻を捨てて、仕事をとったというわけでもない。ただ、愛する人とともに、自分の「夢」に対してひたむきに走ったというだけだ。

 

「仕事に生きる」という考え方があるけど、それは同時に「夢に生きる」という意味でなかったとしたら、それは途端に空虚で辛い言葉に変わってしまう。あの時代の二郎の夢は仕事に重ねることができた。では今の時代の夢は、仕事に重ねるのが適切か。それは各人がよく考えなければならないと思う。

 

とにかく、もう一度ぐらいは映画館に足を運びたくなるような、とてもよい映画だった。まだ観ていないという方は、ぜひ映画館で観てほしい。