脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

世間の評価基準ではなく、自分の評価基準で行動しよう

スポンサーリンク

以下の記事を読んで、大いに共感した。

 

エリート街道を捨てお笑い芸人に! 東大卒・元マッキンゼー社員が語る「人生の決断力」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130729-00002581-davinci-ent

 

僕は石井てる美さんほど優秀ではなかったのでマッキンゼーには入社できなかったのだけど(そもそも入社試験すら受けに行ってないが)、大学・大学院はいちおう同じだ。僕の前職も、マッキンゼーほどではないと思うが結構な激務だった。仕事へのプレッシャーも重く、特に在籍年数が長くなるに連れて求められるコミットの度合いが高くなっていくので、それがどんどんストレスになっていった。仕事が遅くなってタクシーで深夜帰宅をする羽目になると、タクシーの中で石井さんと同じようなことを考えた。

 

「生きるために仕事をしているのであって、仕事のために生きているわけじゃない。そもそも私の人生なのに、なにもやりたいこともやらずに死にたくなってるんだろう。バカじゃないの」

 

結局、僕はその「やりたいこと」を優先するために会社を辞めた。マッキンゼーほどではないにせよ、それなりに給料もいいし名前も知られた会社だったので、いわゆる「世間の評価基準」に照らせば、「辞めるなんてもったいない」という話になるのかもしれない。それでも、僕は自分の評価基準で行動するほうが大切だと考えた。そもそも、世間の評価基準ほどアホらしいものはない。

 

東大には、世間の評価基準に流されてしまう人が結構多かったように思う。特に官僚になりたいわけでもないのに官僚を目指したり、外資系金融や戦略コンサルに「なんとなく」なろうと思ったりする人たちを僕はたくさん見た。こういう人たちは、優秀なので実際に官僚や戦略コンサルタントになれてしまう。なれるだけの能力があるのに、ならないのは「もったいない」と思ってしまうのかもしれない。ノブレス・オブリージュなんて言葉を使って、そういう職業に就くことを正当化していた人にも会ったことがあって、なんだかなあ、と寂しい気持ちになった。優秀な人ほど、世間の評価基準に抗っても生きていく能力があるはずで、世間の評価に流されてやりたくもないことをやるほうが逆に「もったいない」と個人的には思う。

 

世間の評価基準は、実際にはかなりあやしげなものだ。例えば、官僚や外資系金融勤務の人を世間では「エリート」と位置づけることが多いけど、そうやって位置づけている人たちの多くは官僚として働いたり、外資系金融に勤務した経験があるわけではない。単に外野がイメージで語っているだけだ。当事者しかわからない苦労なども当然あるわけで、そういうことまで考えた上で「自分の評価基準」で判断しないと、辛い状態に陥る。 人はひとりひとり全然違うということを忘れてはならない。

 

「世間の評価基準」に流されず、「自分の評価基準」で行動したほうがいい、というのはまあ、あたり前の話でもあるのだけど、できている人はあまりいない。これはなぜだろうか。理由のひとつに、そもそも「自分の評価基準」が明確に定まっていないというのはあるかもしれない。

 

あなたには「世間では◯◯は✕✕という評価だけど、自分では△△という評価をしている」と言えるものがいくつあるだろうか。こういった「世間と自分のズレ」を客観的に認識できると、あとは自分の評価に従うだけで行動ができる。要は、一歩引いた状態から、自分の特性をよく把握するということだ。「世間一般の評価や反応」を知った後に、「では、自分ではどう思うか」と二段階で考えるようにする癖をつけるというのもいいかもしれない。何から何まで、全部世間の評価・反応と一緒になるということは普通ないはずだ。

 

「世間のバイアス」を取り除いたほうが、結果的に人生は楽になると思う。判断もシンプルにできる。自分の人生なのだから、自分が一番嬉しくなるように最適化したほうが、楽しい一生になるのは間違いない。