以下のエントリを読んだ。
出勤はやっぱり儀式?〜社会化寿命の短期化と予期的社会化の連鎖反応
http://bulldra.hatenablog.com/entry/2013/09/09/073342
とても面白い考察だった(おまけに、最後には拙著『脱社畜の働き方』をご紹介いただいている。ありがとうございます)。
「予期的社会化」という概念はこの記事で初めて知ったのだけど、会社員時代を振り返ると、出勤はたしかにモード切り替えの側面を伴っていたように思える。起きたばかりの意識朦朧の状態で朝ごはんを詰め込み、歯を磨き、スーツに着替え……とかなんとか嫌なデイリールーチンをこなしているうちに、徐々にモードは「仕事」へと切り替わっていく。こうやって日々の出勤準備をこなして、電車に乗って会社まで運ばれていくという行為は、まるで工場のベルトコンベアーに乗せられて色んな工程を経て出荷されていく製品みたいで嫌だなぁ、なんて当時はよく感じたりもしていた。
『脱社畜の働き方』の第1章の冒頭は、満員電車のサラリーマンの話から始まる。この暗い話を冒頭に持っていくべきかは結構悩ましいところではあったのだけど、結局いちばん最初に持ってきてしまったのは、「社畜」について語る場合の準備としても、この「満員電車による通勤」という「儀式」からはじめたほうがよい、と無意識的に判断したからなのかもしれない。
ところで、我々日本人が通勤電車に悩まされるようになったのはいつからなのだろうか。いわゆる「サラリーマン」と呼ばれる存在が最初に我が国に登場したのは、大正から昭和にかけての大都市部だと言う。満員電車の起源も、大体そのあたりということになるようだ。先日読んだ瀬地山角先生の「お笑いジェンダー論」で、面白い文献が紹介されていた。1928年(昭和3年)に書かれた、新居格の『サラリーメン論』には、こんな話が出てくるという。
サラリーメンは、一定のデイリープログラムを持つのが常である。ラッシュアワーの出勤、執務、正午食と小憩、執務、四時退出、再びラッシュアワーの帰宅、これが彼等の持つプログラムである。近代的大都市において、群衆人間が描く交響楽の一つがラッシュアワーである。地方から転勤してきたものにとって、第一の苦痛が、ラッシュアワーの出勤である。電車内の人いきれ、それに混入した各種の異臭、特に、沢庵の臭い。電車に乗降する際の混雑が、第一、耐え難いのに、電車内の異臭がある。サラリーメンの仕事の一部に、既に、出勤時退出時の並々ならぬ努力がある。
毎日四時に退勤できるとか(この習慣は早く我々も取り戻したほうがいい)、沢庵の臭いが云々という話を除けば、ほとんど今も変わらないストレスフルな通勤風景の描写である。「サラリーメンの仕事の一部に、既に、出勤時退出時の並々ならぬ努力がある」という一文には、今でも同じように同意する人が多いのではないだろうか。
この本が書かれたのは戦前なのだが、それから大体75年ぐらいが過ぎた今になっても、相変わらず通勤は会社員を憂鬱な気持ちにさせる。これだけ科学技術が進歩したのだから、いい加減、どうにかならないのだろうか。
- 作者: 日野瑛太郎
- 出版社/メーカー: 技術評論社
- 発売日: 2013/09/07
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (5件) を見る
- 作者: 瀬地山角
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2001/12
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 16回
- この商品を含むブログ (8件) を見る