脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

半沢直樹と社畜

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TBSのテレビドラマ『半沢直樹』を先日、全部見終わった。放送時から話題になっていたことは知っていたのだけど、こういう続き物のドラマを毎週毎週中断されながら見るのはあまり好きではないので、あえて放送が終わるまで待ってTBSオンデマンドで買って全部一気に見た。堺雅人香川照之の演技がすばらしく、シナリオもスピード感があって見ていて非常に面白かった。ドラマにここまでのめり込んだのは久しぶりだ。

 

エンタテインメント作品として、『半沢直樹』は間違いなく一級品である。この作品に対して、「いや、現実は……」とか「リアリティが……」などとケチを付けるのは、上映が終わって面白かったと満足して劇場を去ろうとしている観客に水をぶっかけるようなものであり、あんまり面白い行為ではないと思う。そういう意味では、このエントリもそんなに面白いものではない。半沢直樹を題材に、現実の話をしようとしているからだ。そういう話は求めていないんだ、という方はこれ以上読まないほうがいいだろう。

 

このドラマを大いに盛り上げているのが、半沢の立場が上の者にして行う「逆詰め」だ。上司の不正を暴き、証拠を提示しながら歯に衣着せぬ物言いで上司を断罪するシーンを痛快に感じたという人は少なくないだろう。堺雅人の好演技も相まって、このシーンで大きなカタルシスを得たという人は多いはずだ。

 

こういった物語のパターン自体はかなり古典的なもので、『水戸黄門』や『遠山の金さん』あたりの時代劇ではお決まりのものだ。悪役が悪事を働き、主人公たちが悪事の証拠を集めて、終盤に証拠を突きつけ断罪する――シナリオを抽象化すれば、『半沢直樹』もこのストーリーの流れを踏襲していると言える。

 

ただ、『半沢直樹』とこの手の時代劇とでは、感情移入できる度合いが大きく違う。時代劇を見ていて、越後屋の働く悪事に自分ごととしての怒りを覚えるという人は稀だろう。そもそも僕たちは江戸時代には生きていないし、越後屋が云々と言われても基本的には他人ごとでしか無いからだ。

 

一方で、『半沢直樹』の場合は自分を重ね合わせられる領域が遥かに大きい。日本の会社には実際クソ上司が溢れている。それゆえ、『半沢直樹』で描かれる上司のふるまいや不正に対して、主人公に強く感情移入して自分ごとのように怒りを覚えることは多くの人にとってたやすいことだ。もっとも、現実ではこういう上司に仕返しすることはできない。だからこそ、言いたいことを自分の代わりに、立場も顧みずにズバズバと言ってくれる『半沢直樹』には痛快さを感じるのだ。日本人の多くが『半沢直樹』で大きなカタルシスを得ることができるというのは、決して「倍返し」できない日本的サラリーマンの悲しさを反映しているとも言える。

 

なんでこんなに『半沢直樹』がウケたのか、という分析は色んな人が色んなところでしている。要因はたぶん複合的なものなので、「これがあったからウケた」と1つだけ抜き出して断定できるようなものではないだろう。ただ、日本人の多くが「社畜」だったからこんなにも『半沢直樹』がウケたのだ――という主張は、それなりに成り立ちうると思う。

 

半沢直樹は「社畜のヒーロー」とも考えることができる。「いや、半沢は社畜ではないだろ」と言う人がいるかもしれないが、たとえば「出向」がゲームオーバーとほぼ同義で、それを避けるために休日返上で働く半沢の生きる世界自体は紛れも無く「社畜の世界」である。たしかに、普通の社畜は上司を怒鳴りつけたり不正を暴いたりすることはできないかもしれないが、半沢の手にする成功が会社という狭い価値観の中に閉じ込められている限り、それは結局「社畜的成功」に過ぎない。半沢直樹』は、「社畜でありながら、かっこわるい社畜ではない」という「かっこいい社畜の物語」なのである。

 

念の為に言っておくが、僕は「かっこいい社畜の物語」が悪いと言っているわけではない。冒頭に書いたように半沢直樹はエンタメとして間違いなく一級品だと思うし、半沢が外資系金融に転職したり、仲間を集めて起業したりしたらそれこそ駄作である。半沢が「社畜」であることは、『半沢直樹』という物語を成り立たせるために外せない制約条件でもある。半沢がこの「社畜」という制約を背負った状態でどこまでヒーローになれるのか、今後も注目していきたいと思う(続編があれば、だが)。

 

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