脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「生産性の概念の欠如」はなぜ起こるのか

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以下のちきりんさんの記事について。

 

「生産性の概念の欠如」がたぶんもっとも深刻
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131015

 

ちきりんさんのおっしゃるとおり、「生産性の概念の欠如」に陥っている職場は日本には多い。お役所なんてのはその最たる例だが、民間企業でも「生産性」という概念が根付いている職場はあんまりない。僕の前職は比較的生産性にはうるさい職場だったのだけど、いわゆる大企業に就職したり公務員になった友人に会ったりすると、結構な割合で組織の非生産性について愚痴を聞かされる。

 

では、こういった「生産性の概念の欠如」は、なぜ起こるのだろうか。ちきりんさんの記事だと 

(…)会社側に加え働いてる側にも「労働時間が減ったら困る」みたいな感覚がある。「残業代でローンと教育費を払ってます。なので、労働時間、短くなるの困ります」って・・・。

そこには、「働く時間を2割減らして、生産性を4割向上して、仕事時間は短くなったけど、より高い成果をだし、より儲かるようになったから、給与も増えた」という状態を目指すべきなのだという概念が、(たぶん最初から全然)無い。

というように、基本的には生産性に対する意識の問題として考えられているのだけど、僕は決してそれだけの問題ではないと思っている。多くの日本人が給料を上げるために生産性向上よりも労働時間を伸ばすというやり方を選んでしまうのには、「生産性を上げても、給料が上がるとは必ずしも言えない」という悲しい現実があるからではないだろうか。

 

組織構成員ひとりひとりの生産性が向上すれば、それで会社も儲かるようになって、給料も増えるようになるというのは一見正しいように思える。しかし、現実にはどうだろう。生産性向上によって生まれた余剰が、給与にそのまま還元されるという保証は実はない。儲かった分が他の事業への投資に回されたら、給料はそのまま据え置きになる。あるいは、生産性を上げることで生み出された利益が、他の生産性が低い人の損失を補填するために使われるということだってありうる。「生産性を上げたから、給料も上がる」という理屈は、生産性向上による組織への貢献が、正しく給料に還元される仕組みがあってはじめて成り立つものだ。そして、日本の組織の多くは、こういう人事評価の仕組みを備えていない。

 

例えば、「年功賃金」によって給料が決まる会社で生産性を上げても、「仕事をしない定年間際のおじさんたちの給料を代わりに稼いでいる」だけになってしまう。こういう状態で、「生産性を意識しろ」と言われても、アホらしいと思うだけだ。当然、ほとんどの人は生産性を意識せずにラクをする方向を選ぶ。その結果、組織全体の生産性は低下する。会社の競争力も徐々になくなっていき、最終的に会社は潰れる――となんとも不幸な未来が見える。

 

ちきりんさんの記事には 

生産性を上げる以外に、給与を上げる方法はありません。

とある。たしかに、高い給料を払うには会社が儲かってなければいけない。だから、これは間違ってはいない。

 

しかし、

生産性を上げた人を正しく給与面で評価しないと、そもそも人は生産性を上がる気になりません。

ということも忘れてはならない。

 

日本の組織で深刻なのは、「生産性を意識する人がいない」ことよりも「生産性を上げることに対してインセンティブがない」ことなのではないだろうか。

 

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