子供の頃、父から何度も何度も、以下のような内容の話を聞かされた。
「学校では、頑張った人は評価されるかもしれない。しかし、就職して会社で仕事をするようになると、たとえどんなに頑張ったとしても、結果が出せないやつは評価されない。会社には、努力賞はない。仕事は結果がすべてなんだ」
だからお前は結果にこだわる人間になれ――とまで言われていたかどうかはちょっと覚えていないのだけど、「仕事は結果がすべて」というフレーズは心に残った。いずれは自分もそういう世界に行くのだろうか、怖いなぁ、いやだなぁ、と色々不安に思ったことを覚えている。
もっとも、一度就職して働くようになってからは、「仕事は結果がすべて」という主張は、実際には結構あやしいということに気づくようになった。特に、日本企業で従業員をやるのであれば、「仕事は結果がすべて」というのは基本的にはウソである。
経営者の視点で考える範囲においては、「仕事は結果がすべて」というのもまあ正しい。会社は利益を出し続けることができなければ潰れるしかない(たまに税金で救ってもらったりする会社もあるようだが)。そういう意味で、「努力賞」はありえないというのは納得できる。「頑張りました」というだけで市場から評価を受けることはない。そもそも、多くの顧客にとっては、会社が頑張ったかどうかなんてことは知ったことではないのだ。ビジネスは、確かにそういう厳しい世界で行われている。
もっとも、会社の一従業員としての立場から考えてみると、「仕事は結果がすべて」とは到底思えないようなことも多い。例えば、会社員は仕事で思うように結果が出せなくても、基本的にはそれでクビにされたりはしない。一方で、仕事で抜群の結果を出したとしても、その貢献に比例する形で給料が上がるようなこともない。そもそも、日本型雇用システムの根幹である「年功賃金」なんてものは、「仕事は結果がすべて」という考え方と完全に矛盾する。仕事の結果と何ら関連性がない「年功」によって賃金が決まるのだから、「仕事は年功がすべて」と言い直したほうが実態をよく表しているように思える。
「仕事は結果がすべて」でないというのは、仕事の頑張りが労働時間によって測られ、それがさらにその人の評価になるような職場があるということからもよくわかる(「どれだけ残業したか」で社員を評価しようとする残念な職場)。実力主義を謳う会社であっても、ほとんどの場合は仕事の結果のみでその人を評価したりはしない。よくわからない抽象的な評価指標をこねくり回した結果、相場の額に落ち着くというパターンのほうが圧倒的に多い。
「仕事」 が会社に雇用されて従業員として行うものである場合には、それは決して「結果がすべて」ではない。そもそも、雇用契約は請負契約と違って、「労働に従事すること」自体に賃金が発生することになっている。法律的にも、(雇われて働く限りにおいては)「仕事は結果がすべて」ではないということになる。
実は、上で父が仕事と対比させていた「学校」のほうが「結果がすべて」という側面が強いとも考えることもできる。例えば、大学の一般入試を思い浮かべてほしい。一般入試では、基本的には「テストの点数」という「結果のみ」で合否が決定される。その人が試験を受けるまでにどれだけ勉強をしていようと、合格点に至らなければ落とされる。一方で、どれだけ勉強をしていなくても、当日運良く解ける問題がたくさん出て、合格点が取れればそれで問題なく合格になる。会社に雇われてする仕事では、こういう清々しいまでの「結果主義」によって評価されることは基本的にはない。
仮に「仕事は結果がすべて」だとすれば、それはそれで結構悪くないと今の僕は思う。そうであれば勤務態度も問題にはなりえないだろうし、上司にゴマをする必要もなくなるだろう。ただ、そういう働き方と「会社員」であることが両立するような気は正直あまりしない。
- 作者: ジェームズアレン,James Allen,坂本貢一
- 出版社/メーカー: サンマーク出版
- 発売日: 2003/04
- メディア: 単行本
- 購入: 48人 クリック: 764回
- この商品を含むブログ (226件) を見る