脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

努力という才能

スポンサーリンク

昔から、努力家は称賛される。

 

家にお金がなくてアルバイトをしながら学校に通ったとか、1日16時間の猛勉強で司法試験に受かったとか、俳優が役作りのために体重を20kg落としたとか――バリエーションは色々あるが、この手の「努力」エピソードに我々は心を打たれる。

 

彼らは立派だ。それは間違いない。ほとんどの人は、自分も彼らを見習いたいと思うだろう。

 

しかし、実際に彼らと同じことができる人はあまりいない。そもそも、そんなにすぐに真似ができてしまうぐらいのものだったら、彼らがここまで賞賛されるようなことはない。多くの人は、努力を続けることができずに遅かれ早かれ挫折してしまう。

 

そういう意味では、「努力」というのも一種の才能のようなものだと考えられる。1日16時間の勉強が毎日できるという人は、最初からそういう才能を持って生まれてきたということだ。

 

そしてそう考えると、「他人にどこまで努力を求めてよいか?」という問題は結構微妙になる。

 

例えば、Aさんは努力すれば1日16時間の勉強ができる。一方で、Bさんはどんなに努力しても1日3時間の勉強がやっとだ。この場合に、BさんをAさんよりも「努力していない」と考えるのは妥当だろうか?二人とも、自分の中の「限界まで」努力しているという点では同じと考えることはできないだろうか。ここでBさんに、「Aさんはあんなに頑張っているのに、お前はその1/5もできていない、努力が足りない」と言ってしまうのは酷なのではないだろうか。

 

日本は、「努力の結果ついた差については許容しよう」という考え方で社会が回っている。別に僕は、この考え方を完全否定しようと考えているわけではない。むしろ、多くの場合は、この考え方が妥当だと思う。これを認めないと、努力をするのはアホらしいということになりかねない。しかし、「努力の才能」がなかったために、他の人より結果が著しく悪くなってしまった人を「自業自得」と考えるのは正しいのだろうか。

 

「頑張った人が報われる社会」という言葉をスローガンに掲げる人がいる。いわゆる「機会の平等」の議論の文脈で出てくることが多い。たしかに、頑張った人は報われるべきだろう。それは間違いない。では、「頑張れなかった人」は報われなくてよいのだろうか。頑張った人が加点されるのは当然として、頑張れなかった人は逆に減点されるべきなのだろうか。頑張れなかった人も、とりあえず現状は維持というわけにはいかないのだろうか。

 

このあたりをモニョモニョと考えていくと、正直よくわからなくなってくる。この議論を進めて「機会の平等」を完全否定し、「結果の平等」ばかりを強調すると、それは最終的に社会主義に行き着く。それはマズいのは歴史が教えるとおりだ。

 

やっぱり、どこかに「努力」に対するインセンティブは必要だろう。ただ、「努力の結果」という一言で格差を全面肯定するのは違うはずだ。

 

色々と、むずかしい。

 

努力しない生き方 (集英社新書)

努力しない生き方 (集英社新書)