脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「努力する」のは最後の手段

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努力は大切だ。そんなことは、わざわざ言わなくても誰でも分かっている。仕事でも勉強でも、頭ひとつ抜き出た結果を出したいのだったら、多かれ少なかれどこかでは努力しないといけない。活躍している人は、やはりどこかで努力はしている。悲しいけど、世の中は概ねそういうことになっている。

 

ただ、このように努力の価値が重要だと思う一方で、僕は安易に努力してしまうというのもあまりよろしくないと思っている。努力しなくて済むなら、なるべく努力はしないほうがいい。努力するのはなるべく先延ばしにして、本当に努力しないとどうしようもない段階になってはじめて努力する――そんなふうに、努力するのは「最後の手段」にしておいたほうが、実はよいと個人的には思う。

 

なぜこんなことを言うのかというと、努力そのものが目的になってしまっているような人を割と頻繁に見かけるからだ。僕がまだ会社で働いていた時の話だが、ものすごくやる気に満ち満ちた新人がいた。最初の自己紹介で、彼は「自分は全然寝なくても大丈夫な体質なんで、必死に働きます!」と宣言した。嫌な予感がした。こういうことを言う人に限って、仕事ができなかったりする。果たして、彼は大丈夫なのだろうか。

 

嫌な予感は的中した。彼は「考える前に努力してしまう」タイプだったのだ。仕事をお願いすると、もっとも愚直な方法でそれを解決しようとする。具体的な仕事の話は書くわけにはいかないので喩え話をすると、エクセルのマクロを使えば一発で終わるような仕事を、延々と電卓でこなすような感じだ。そんなに量が多くないというのであれば、電卓も手段としてはいいかもしれない。しかし、明らかに電卓では終わらない量だというのであれば、電卓以外の手段があるのでは?と疑ってほしい。努力する前に、まずはラクできないかを考えて欲しいのだ。しなくていい努力をしても、別に仕事の結果がよくなるわけではない。彼はずっと、「しなくていい努力」ばかりしていた。

 

もっとも、彼が「しなくていい努力」のために、毎日のように朝早く出社して、遅くまで会社に残っているということもあり、事情をよく知らない人からは「あいつは根性がある」「頑張っている」と肯定的な評価が下されていたというのも事実である。結果よりも姿勢を重視する人にアピールするのだったら、こういうのもアリなのかもしれない。ものすごく愚かで虚しいことだと僕自身は思うのだが。

 

努力することはたしかに立派だが、ひとりの人間が努力できる量には限界がある。努力するにはエネルギーがいるので、そんな毎日毎日努力ばかりしていたら、どこかできっと燃え尽きるだろう。エネルギーはなるべく温存しておいたほうがいい。頑張らなくて済みそうだと思うならなるべく頑張らないでおいて、本当に頑張らないとどうしようもない時だけ頑張ったほうが、負担はずっと少ない。

 

受験の時に、きれいなノートを作る努力ばかりしていて、それで全然成績が上がらないという人が周りにいなかっただろうか。サブノートが欲しいなら、本屋の参考書コーナーに行けばいくらでも買える。きれいなノートを作ることは、別にしなくてもいい努力だ。そのためのエネルギーは、たとえば問題演習のような本当に必要な努力に振り分けたほうがいい。

 

「頑張っている姿勢を見せること」自体が目的でない限りは、しないで済むなら努力なんてしないほうがいい。そのほうが疲れないし、もしかしたらもっと効率のよいやり方を思いつくかもしれない。努力は大事なことではあるが、最初にすべきことではない。

 

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あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。
 

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