脱社畜ブログ

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『いじめ問題をどう克服するか』書評

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昨日に引き続き、いじめに関する本をもう一冊読んだ。

 

 

テレビを見る習慣が全然無いので知人に教えてもらうまで知らなかったのだが、本書の著書の尾木直樹氏はテレビによく出ているとかで、お茶の間では有名な人なのだそうだ。なぜ男性なのに「尾木ママ」という愛称で呼ばれているのか本を読んだだけではよく分からなかったのだが、YouTubeで動画をいくつか見たらようやく理解できた。

 

さて、そんな尾木ママこと尾木氏は元教員で現在は教育評論家という立場なので、本書も必然的にそういう立ち位置からの本ということになる。昨日取り上げた内藤朝雄氏の『いじめの構造』では、現行の学校制度を「実質的には強制収容制度になっている義務教育制度」と一刀両断していたが、本書では現行の学校制度自体は課題ありとしつつもその存在を根本から否定するようなことはなく、現場や子供の目線に立った意見が書かれている。

 

正直な感想を書くと、本書の唱えるいじめ対策は僕にはピンとこなかった。筆者の教育に対する真摯な態度や子供に対する情熱は本書のさまざまな部分から伝わってくるので、そういう意味では敬意を表したくなる本なのだが、全体的に「子供や地域社会の可能性」を高く評価しすぎていて、性善説的でありすぎるように思えてならない。

 

筆者は「子ども主体のいじめ対策や学校づくり」を通して生徒の「シチズンシップ」を育成し、人権感覚を身につけさせいじめを克服するというシナリオを提出しているが、これはとても美しい話だと思う反面、実効性はかなり疑わしいように思える。「子ども主体」の裏には当然教師や学校の意向が存在し、彼らの意向を大きく外すような「自治」は決して認められないだろう。そういう制限付きの「自治ごっこ」でどれだけ「シチズンシップ」の育成に効果があるのか、正直かなり疑わしい。

 

また、本書では「修復的な対応」という言葉で、いじめ加害者と被害者との関係を修復し、さらには傷ついたコミュニティをも修復するようないじめ問題の解決を掲げているが、これはあまりに理想的にすぎる。問題が解決したら、加害者も被害者も同じクラスに戻して、仲間として一緒に授業を受けましょう、学校行事に参加しましょう、というのは無理があるのではないか。大人の社会でも、一度こじれた人間関係は元には戻らない場合のほうが圧倒的に多い。元に戻らないものを無理に戻そうとするより、もう二度とその二人は関わらなくて済むように措置をとるべきなのではないだろうか。人間は基本的には「分かり合えない」場合の方が圧倒的に多く、それを認めたほうが現実的な被害は少なくなると僕は思う。

 

学校では「おもいやり」であるとか「ほほえみ」という言葉が強調される傾向にあるが、現実社会を見回せば「おもいやり」や「ほほえみ」ばかりで社会が回っていないのは明らかだ。職場の人間関係も、あるいは隣近所の人間関係も、綺麗事だけではできていない。ただ、適切に距離を取ることや関わり方を調整することで、僕たちは衝突せずに生きることができている。それが、学校という小社会だと急に「おもいやり」や「ほほえみ」で事が回るようになるとは到底思えない。「みんな仲良く」という達成できない目標を捨て去ることが、いじめ対策の第一歩ではないかと僕は個人的に思っている。

 

このように同意できない部分も少なくない本だったが、価値のある記述も多い。第1章でまとめられているいじめの歴史、定義の変遷や、いじめ防止対策推進法の成立についての説明は過不足なくまとめられていてわかりやすい。学校や教育委員会がいじめを隠蔽しがちであることや、現場の教師が直面している課題(教師の多忙・疲弊問題)などを知れたのは大きな収穫だった。

 

本書で取り上げられていた教師の多忙・疲弊問題については、色々考えるところも多かったので、稿を改めてまた何か書きたい。