脱社畜ブログ

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「結束力のあるチーム」が良いチームだとは限らない

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「結束力」という言葉は、基本的にポジティブなものだと捉えられている。それこそ日本では小学校ぐらいから「クラスが一丸となって」何かをやり遂げることは良いことだと教えられるし、会社に入ってからも「部署内の結束力を高めるため」と称して飲み会が行われることがある。チームワークとはすなわち結束力のことである、という信念を抱いている人は少なくない。

 

僕この考え方に少し異議を唱えたい。たしかに、チームの構成員がひとつの目標に向かって一致協力している状態は、チームの熱量という観点では悪くないのかもしれない。チーム内の雰囲気もいいだろう。自分たちのやっていることについて誰も異論を唱えたりしないから、あとはまっすぐと、各自が精一杯手を動かしていけばいい。

 

問題は、この「誰も異論を唱えたりしない」という点だ。チームが一丸となって何かに取り組んでいる時に、「でもさあ、これってホントにやる意味あるのかなぁ」と異論を唱えるのは、チームの結束力を乱すことに繋がる。その「ホントにやる意味あるのかなぁ」という意見が実はかなり鋭い指摘だったとしても、多くの人は空気が読めないやつだと思われてしまうことを恐れて、思っても口にしないようにする。もともとのチームの結束力が高ければ高いほど、チーム内で形成された空気に反するような意見は言えなくなる。このことは、分野によってはチームの致命的な弱点になりかねない。

 

たとえば、イベントでも映画でも「内輪ノリだけで突き進んでしまった作品」と言えるようなものがある。作っていた当人たちは面白がっているのかもしれないが、いざ世の中に出てみると、そのノリがさっぱり理解できないので面白くもなんともない。当然、そういう作品は興行的には失敗する。このような作品ができてしまうのは、チームの結束力が必要以上に高まりすぎてしまって、「異論が言えない」空気がチーム内で醸成されてしまうことにひとつの原因がある。

 

「これ、自分たちは面白いけど、世間の人も面白いと思うかなぁ?」とチームの誰かが思いつくこと自体は、そんなに難しいことではない。しかし、それを堂々と表明して、しかもそれがチーム内で受け入れられて建設的な議論に発展するようなケースは残念ながらあまり多くない。お気づきの方もいると思うが、これはまさに近年話題の心理的安全性」の問題だ。そして、単にチームの結束力が強いというだけでは、チームの心理的安全性は高まらない。むしろ、マイナスに作用することだってある。

 

チームが取り組んでいる課題が単純なものであれば、結束力は概ねポジティブな影響をもたらすだろう。たとえば、みんなでひたすら折り鶴を折るとか、大量のアンケートを集計するとか、そういうものであれば広くメンバーから意見を募って議論する必要もないので、あとはチームの熱量だけの勝負になる。しかし、昔ならともかく、今や会社でそういう仕事にだけ取り組んでいるチームは稀だ。チームが直面する課題は複雑で、何が正解なのかは誰にもわからない。そういう複雑な高難易度の課題に取り組む時に、チームメンバーがひたすら場の空気を読むことに徹していたのでは、到底いい結果は出せない。

 

そろそろ、結束力や団結力を至高と考える価値観から転換する必要があると僕は思う。心理学の分野では「集団思考」という言葉もあって、組織の結束性がしばしば負の影響をもたらすことが知られているが、こういうことはまだ世間一般にはそんなに広がっていない。たとえば、Googleで「結束力」というキーワードで検索してみるとわかる。一般的には、やはり結束力=絶対的に善なのだ。もちろん、烏合の衆に成り下がったチームがいいわけではないことは当然だが、過度に結束しすぎていない、異論が歓迎されるようなチームが今後は求められるのではないだろうかと思う。

 

 

チームが機能するとはどういうことか――「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ

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