脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

働く能力がありながら仕事もせず一定の住居を持たないでうろついていた男(54)が逮捕された事案に見る日本の道徳感

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ネットで話題になっているので、知っている人も多いと思うが、奈良県警のサイトに、次のようなニュースが載っている。

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働く能力がありながら仕事もせず一定の住居をもたないでうろつくことが何で罪になるの?と思ってしまうが、なんと軽犯罪法1条4号には次のような規定があるのである。

 

軽犯罪法1条4号

生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの

 

僕も、軽犯罪法にこのような規定があるのは今まで知らなかった。これを機会に軽犯罪法の条文を眺めてみたのだけど、どうもこの法律は時代遅れ感が否めない。列挙されている犯罪群は体系的でないし、条文も「正当な理由」が連発してあっておそろしく曖昧で、これでいいのか、という気持ちになってしまう。

 

思うに、道徳観というのは時代と共に変遷するものだ。例えば、日本にはかつて姦通罪という犯罪があったが、これは現代の道徳観にはそぐわないということで、刑法からは削除されている。さらに遡れば、敵討ちによる殺人が合法的な行為だった時代もある。何が道徳的に是で非なのか、というのは、時代というバックグラウンドを加味せずに考えることはできない。

 

そして、働く能力がありながら仕事をしないということは、現代の道徳観に照らして、犯罪にしなければならないほどの行為だといえるのだろうか。確かに、働かない人に対する風当たりはまだ強い。「働かざるもの食うべからず」と思っている人はたくさんいると思う。だが、僕は昔に比べて、「議論になる」程度までには、働くことがいいことだ、という価値観は相対化されてきているのではないかと思う。

 

日本が貧しかった時代ならともかく、これだけ豊かになったのだから、そろそろ働きたくない人は無理して働かない、という選択も許容されていいのではないか。全員が全員、どんなに辛くても、働けるなら働かなければならないという無言の社会からの圧力のようなものが、過労死や自殺といった新たな問題を生んでいるという事実もある。働きたい人は一生懸命働けばいい、でも、働きたくない人は無理に働かなくてもいい。そんなふうに、そろそろ道徳観がシフトする時が来ているように僕は思う。

 

時代遅れの規定が、そのままずっと法律で残っているというケースは日本では結構多い。たとえば、失火責任法という法律があるが、これは「日本には木造家屋が多くあり、火はあっという間に燃え上がってしまう。だから延焼部分については責任を免除しましょう」という内容の法律で、明治時代に立法されたものだ。現在ではそこまで木造家屋だらけではないし、建築基準法などの効果もあって延焼の危険は立法当時に比べればかなり低くなっており、妥当性がだいぶあやしくなっているが、未だに廃止されずに残っている。非嫡出子の相続分を嫡出子の半分にするという民法規定(900条4号)も、議論は何度もされているが、未だにそのままになっている。立法趣旨が時代の変遷とともに妥当しなくなってきたら、すばやく内容を見直すということをもっと日本人は積極的にやったほうがいい。

 

残念ながら、まだ軽犯罪法規定がある以上は、このような事由で逮捕されることはありえるということになる。とりあえず、軽犯罪法が改正されるまで、この規定に該当しそうな人たちは、求人情報誌を常に持ち歩いて「職業に就く意思」をアピールするなどして、うまく逮捕から逃れて欲しいと思う。

 

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