日本社会には、「ゆるさ」がほとんどない、ということを最近よく考えている。
例えば、日本の鉄道運行は異常なまでに正確だ。朝、列車が詰まっていて駅への到着が定刻より2分遅れただけで、駅員は謝罪のアナウンスをしている。世界的に見ても、ここまで鉄道運行が厳格で1分の遅れも許されないものと考えているのは、日本ぐらいのようである。推理小説のトリックで、「時刻表トリック」というものがあるが、これは外国のミステリー小説には出てこない。外国の鉄道は、そこまで正確には運行されていないからだ。1分たりとも遅延せず、時刻表通りの運行がかなりの確率で保証されている日本の鉄道の信頼性が、このトリックの実現を可能にしている。
「ゆるさ」が許容されないのは鉄道だけではない。今までも何度か書いているが、日本には実害がなかったとしても、一分足りとも社員の遅刻を許さないという会社が山ほどある。飲食店では、注文した料理がすぐに来ないと、不機嫌になって怒る客がいる。たとえ1分であっても時間を無駄にしないという姿勢はそれなりに立派だと思うが、なんというか、社会全体がピリピリしているみたいで、僕はものすごく窮屈に感じることがある。
先日、『遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成』(橋本毅彦・栗山茂久)という本を読んだのだけど、この本によると日本人の定刻志向は、明治時代あたりから始まったもので、歴史的に見るとつい最近できたものにすぎないそうである。江戸時代までは、日本人は実にのんびりしていたようで、明治維新後日本にやってきたお雇い外国人が「日本人は時間を守らない」と憤慨していたという話すらある。日本人は勤勉で真面目だとよく言われるが、DNAレベルで本当にそうなのかと言われると、どうもあやしい気がしてならない。
僕はこのことを考える時、いつも大学生の頃を思い出す。あの頃は、友人と待ち合わせをするにしても、例えば「12時頃に大学で」というゆるい約束しかした覚えがない。それでもなんとなく待ち合わせはできていたし、たとえ友人のうちの1人が1時間くらい遅れてきたとしても、それを批難するような人はいなかった。こんな状態でもコミュニティが機能不全に陥ったことはないので、ゆるい社会でも、人はそれなりにゆるく生きていけるのではないかと思う。
もちろん、学生の遊びの待ち合わせのゆるさを、そのまま市場主義経済によって維持されている現代社会に直接適応できるとは思っていない。それは僕も重々承知している。ただ、1分とか2分とか、そういう時間に過度にこだわりすぎて窮屈に感じるぐらいだったら、ある程度のゆるさを許容してピリピリせずに楽しく毎日を送ったほうが、社会全体の幸福の総量のようなものは増えるんじゃないか僕は思う。それで生産性が多少落ちたとしても、その分毎日を楽しく過ごせているならそれでいいんじゃないだろうか。
「ゆるい」日本社会も、たぶんそんなに悪くないものだと僕は思う。

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