世界的に見て、日本が物質的に豊かな国であるということは紛れも無い事実だ。生活必需品は質にこだわらなければ誰でも手に入れられるし、吉野家に行けば、飛び切り美味しい牛丼がわずか380円で食べられる。生活インフラの安定感は抜群で、断水や停電も滅多に起こらない。世界を見回せば、こういった前提がことごとく成立していない国はたくさんあって、僕たちの生活が驚くほど恵まれていることがわかる。
このように、日本人は物質的には世界トップクラスの豊かさを享受しているが、では幸福度も世界トップクラスなのかと言われると、どうもそれはあやしいと言わざるをえない。満員電車で通勤するサラリーマンはこの世の終わりのような表情をしているし、自殺者は年に3万人以上、未遂も含むと30万人に及ぶとも言われている。楽しいことがほとんど見つけられず、一度も笑うことなく一日を終えてしまった、という人だって少なくないだろう。
学生の頃、カンボジアで地雷除去をしているNPOの代表の方とお話をする機会があったのだが、その方が、「カンボジアの人たちは、日本人よりも圧倒的に笑顔でいることが多い」と言っていたのが未だに印象に残っている。物質的豊かさで比べれば、言うまでもなくカンボジアは日本よりも貧しい。そんな彼らが僕たち日本人よりも笑顔でいることが多いとはどういうことなんだろうか。
僕は、これは幸せを感じる閾値の差に理由があるんじゃないかと考えている。これもNPO代表の方に聞いたのだけど、カンボジアの人にとっての一番の幸せは、「一日三食、ご飯が食べられること」なのだそうだ。彼らにとって、一日三食、ご飯がしっかり食べられた日は素晴らしい日であり、そんな日は幸せな気持ちで眠りにつくことができる。日本人でこの気持が分かる人はきっとほとんどいないだろう。僕たちにとって、一日三食ご飯が食べられることはもう当たり前過ぎて、幸せとか不幸とか、そういう話の埒外にあるように感じてしまう。
もっとも、日本人も、戦後まもなくはこういうことに感動できていたのではないかと思う。それが高度経済成長を経て、どんどん国が豊かになっていく中で、幸せを感じる閾値も一緒にぐんぐん上がっていったのではないだろうか。
生活水準を上昇させると、上げた直後には感動があり、幸せになったと感じるが、時間が経つにつれてそれは当然のこととなって、やがて何も感じなくなってしまう。再び感動を味わうためには、さらに生活水準を上げるしかない。しかし、生活水準は際限なく上げることはできないので、どこかで何をやっても幸福を感じられない状態がやがてやってくる。こうやって、頭を打ってしまったのが今の日本社会なのではないか、と思うとちょっと怖い気持ちになる。
こんなふうに、幸せを感じる閾値が上昇しすぎてしまった日本人にとって、今後重要になってくるのは 「些細なことでも感動して、幸せを感じる」というスキルなのではないかと僕は考えている。「スキル」と書いたのは、これは誰でも訓練次第で身につけられるものであるような気がするからだ。
まっさらな頭で一日の生活を振り返ってみると、思いのほか感動や幸福を感じられることが多いはずだ。今日のお昼ごはんが美味しかったとか、8時間寝られてとても気持ちよかったとか、駅で見かけた女の子が可愛かったとか、探せばそれなりに見つけられるんじゃないかと思う。減点法ではなく、加点法で生活することで、何気ない日常もそれなりに楽しいものになりうる。
毎日が全然楽しくない、という人はこのスキルを鍛えることを検討してみてもいいのかもしれない。
(もちろん、あなたを明確に不幸にしている原因があるとしたら、それを取り除く努力をしたほうがよいのは言うまでもない。些細な幸せを感じることで、辛いことを我慢しろとか耐えろという話ではない。念のため。)

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