脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

今日は勤労感謝の日なので、「労働」の本質について考えてみた

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今日、11月23日は勤労感謝の日である。勤労感謝の日は、国民の祝日に関する法律によると、

 

勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう

 

日なのだそうである。この制定趣旨の通りに、勤労を尊んだり、生産を祝ったり、国民たがいに感謝するかはともかく、今日が「労働」や「仕事」について考えるよい機会であることは確かだ。そこで今日は、僕が考える「労働」の本質について書きたいと思う。

 

僕が考える労働の本質はものすごくシンプルだ。それは「自己実現」でも「成長」でも「社会貢献」でもなく、単純に「働いた分のお金をもらう」ことだと思っている。「労務を提供して、それに見合った対価をもらう」という行為が労働の本質であり、絶対に欠けてはならないコアはこれである。他は枝葉であり、あってもなくてもいいと思っている。

 

この考えに対して「労働」や「仕事」の意味は、お金以外にもある、と反論する人がいるかもしれない。確かに、人それぞれで働くことに金銭以外の他の付加価値があってもいいとは僕も思っている。ただ、それは「労務を提供してそれに見合った金をもらう」ということが満たされた上で、おまけ的に付随するものだ。たとえ仕事で「自己実現」できたり「成長」できたとしても、この「労務を提供してそれに見合った金をもらう」といった当たり前のことが守られなければ、それは単なる「やりがい搾取」や「労道」といった詐欺や信仰の類でしかないと思う。

 

実際、日本では仕事の本質でないはずの「自己実現」や「成長」を前面に出して、この「労務を提供してそれに見合った金をもらう」といったことがおざなりにされることが少なくない。

 

例えば、日本ではサービス残業が横行しているが、それの違法性は軽視され続けている。サービス残業「労務を提供したのにも関わらず、それに対する対価が一切もらえない」ということで、正しい労働の形になっていない。こんな重大犯罪行為が、「仕方がないこと」として受け入れられているのが現在の日本だ。

 

また、飲食などのサービス業は、その賃金に見合わないまでもの過剰サービスが求められ、しかもそれができないと会社からだけでなく、消費者からも強く批難されたりする。これも、提供した労務と対価が釣り合っているとは到底思えない。提供した労務と対価のギャップは自己実現や成長、やりがいなどで埋められることになり、これも健全な労働の形になっていないと僕は思う。

 

このように、現在の日本社会では「労務を提供してそれに見合った金をもらう」といった本来あたりまえであるはずのことが、平然と蔑ろにされている。これは、労働の本質が、「働いた分のお金をもらう」ことではなく、本来副産物に過ぎない「自己実現」や「成長」にあると間違った捉えられ方をしているのが一因ではないかと考えられなくもない。

 

「仕事」や「働くこと」の価値として、「自己実現」や「成長」ばかりを強調する経営者がいたら、注意をしたほうがいい。「労務を提供してそれに見合った金をもらう」といった労働の本質が、正しく成立しているかよく確認してみよう。もしこれに大きな不均衡が見られるようだったとしたら、経営者はあなたを騙したり、搾取しようとしている。そんなニセの労働を、尊んだり感謝したりする必要など微塵もない。

 

 

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