脱社畜ブログ

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「体罰」に教育的な効果はない

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大阪市桜宮高校バスケットボール部の男子高校生が、体罰を苦に自殺するという非常に残念な事件が起きた。このことがきっかけで、ネット上では「体罰」について様々な意見が飛び交っている。内容は体罰を完全否定するもの、基本的には否定するものの体罰が必要な場合もありうると考えるもの、そして例のごとく「自分たちのころはもっと酷かった」と負の連鎖を強要するものなどなど、多様である。

 

桑田真澄さん“体罰では強くならない” NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130111/k10014748731000.html
小倉智昭体罰容認派?「目つぶってもいいんじゃないというのもある」
http://www.j-cast.com/tv/2013/01/11160950.html
高2自殺 厳しい意見の一方、擁護する声も - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130110-00000049-nnn-soci

 

「自分たちのころはもっと酷かった」論が決定的に間違っているということは、このブログで何度も書いている。とても大事なことなので何度でも書きたいが、自分たちが理不尽なことをされたからと言って、下の世代に同じ理不尽を強いてよい理由は存在しない。「自分たちも昔されてたから」というのは、下の世代に理不尽を強いる際の強力な免罪符になるようで、この手の負の連鎖を断ち切るには、強力な意志が必要になる。そういう意味で、先に挙げた1つ目の記事の中で、桑田真澄さんが自らも体罰を受けていたにも関わらず、体罰による指導を否定する立場を取っているのは、簡単にできることではない。この姿勢は見習いたい。

 

負の連鎖による体罰容認は当然間違っているとして、「言って聞かせるだけではダメなときもある、時には体罰も必要だ」という立場についてはどうだろうか。この主張が正しいかどうかは、体罰の目的を何と考えているかによる。動物の調教のように、恐怖を与えることで自分の思い通りの行動を取らせたい、という目的で行なっているのであれば、悲しいことだが一定の効果はあるのかもしれない。しかし、教育的手段として「時には体罰も必要」と主張しているのであれば、これは完全に間違いである。体罰」に教育的な効果は一切ないと僕は思う。理由は以下の通りだ。

 

体罰は恐怖による「支配」に過ぎない

体罰による指導は、指導を受ける側が納得していないにもかかわらず、指導者が望む行動を暴力という形で強要するものである。体罰を受けたものは、その行動が正しいと自分で納得したからその行動に従うのではなく、違う行動を取るとまた殴られるかもしれない、怖い、という気持ちから指導者の行動に従うようになる。これは、「支配」であって「教育」ではない。「教育」の効果は長期的だが、「支配」の効果は一時的である。例えば、指導者の交代等の事情で恐怖が取り除かれた場合は、すぐにまた元の行動に戻ってしまう可能性は高い。

 

社会では暴力による問題解決は認められない

そもそも、人が人に暴力を振るえば、それは暴行罪や傷害罪と言った立派な刑法犯になる。社会では、暴力による問題解決は認められていないが、これが学校だと許されるというのはどう考えてもおかしい。学校教育には、多かれ少なかれ社会に出た後に必要なルールや常識を学ぶという側面があるはずだが、ルールを逸脱した手段によってルールを教えるというのは本末転倒であり、これでは指導の説得力を大きく欠く。

 

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部活動の現場で圧倒的に体罰が多いのは、とにかく強いチームを作ることが目的になってしまって、その教育的側面が完全に無視されていることも大きいと思われる(さらに言うと、桑田さんの言うように、体罰を行えばチームが強くなるということもない)。「教育」を行おうと思っているのなら、「体罰」なんて愚の骨頂である。それは、教育の放棄でしかない。

 

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