嫌われれば嫌われるほど、一流の人たちに囲まれるようになる
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/21189
最初に、このエントリはイケダハヤトさんご本人や、あるいは彼に対するネット上の反応について論評する趣旨のものではないことをお断りしておく。「ネットで誰かに嫌われること」という一般論について書くのが目的だ。
この記事を読んで、「アンチもファンのうち」という言葉を思い出した。本当にその人のことが嫌いで嫌いで仕方がなくて、考えるのも嫌なのであればそもそも話題に出したくないと思うものであり、強烈な批判にせよ誹謗中傷にせよ、話題にせずにはいられないように思わせる、というのはある意味立派な「才能」である。誰かに猛烈に好かれるというのは難しいが、誰かに猛烈に嫌われるというのもなかなか簡単なことではない。どちらも、誰かの感心を強く引くという意味では、同じだからである。これらはベクトルが正反対なだけで、絶対値で考えれば一緒だ。
若木民喜先生の『神のみぞ知るセカイ』という漫画の中に、恋愛ゲームの達人である主人公のセリフで次のようなものがある。
「ゲームではな、「嫌い」と「好き」は変換可能なんだよ」 (1巻 42pより)
本当に恋愛でこの技が使えるかはともかく、ネット上では「好き」も「嫌い」も大体同じようにPVに変換可能である。そして、PVはアフィリエイトなどでお金に変換できる。逆に、全くお金にならないのが「無関心」だ。嫌われようと好かれようと、とにかく人の感心さえ引ければ、それをマネタイズすることはできる。「炎上マーケティング」は、残念ながら有効だ。
ただ、じゃあ僕もこの手法をマネして稼ぎまくりましょう、と開き直れるかと考えると、それは無理だと思わずにはいられない。実際、このような内容のブログをやっているので、嫌いな人は僕のことがかなり嫌いなようで、たまに問い合わせフォームから呪詛の言葉を送り付けてくる人もいる。そういう人たちに向けて、もっともっと嫌われるように振舞ったり、あるいは繊細なテーマについていかにも炎上しそうな内容の記事を書いて煽りに煽ることもできるとは思うのだけど、こういうことはあまりやりたいとは思わない。人間、誰からも好かれることなんて出来ないというのは当然だし、何か意見を言うことで誰かに嫌われることがあるということは当然覚悟しているが、嫌われてばかりでほとんど共感が得られないというのは辛いと思うし、何より無責任なことばかり言っていると、将来的な信用を毀損してしまうような気がするのである。
このあたりをあまり気にせずに、開き直って「人に嫌われることができる」というのは、やはり立派な才能だと思う。そして、特に自分は欲しくないと思う類の才能だ。

- 作者: 若木民喜
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- 発売日: 2008/07/11
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