脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

楽しみながらでも、人は成長できる

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「成長」という言葉を使うと、なんだか意識が高くて背中のあたりがムズムズしてしまうのだが、今日はそんな「成長」について少し書こうと思う。

 

まず、最初に「成長」という言葉の意味を明らかにしたい。ここでは、単純に「現在の自分が出来ないことが、出来るようになること」と定義したい。また、「成長」を見返りにした不当な搾取的労働は、絶対に是認できないということも表明しておく(成長とかいらないからまずは残業代ちゃんと払えよなど参照)。

 

こういう前置きをした上で、今日書きたいのは、「人は、別に苦しまなくても成長できる」という話だ。「成長」を謳うベンチャー企業などは、「仕事は辛いことも多いです。でもその分、大きく成長できます」ということを言ったりする。こういう話を聞いていると、「成長」は苦しんだ先にしか存在しないように思えてしまうが、決してそんなことはないということを今日は書きたいと思う。

 

まず、人が成長するのに必要なものは何かということを考えてみる。現在の能力では出来ない何かを出来るようになるためには、端的に「学習」が必要だ。言い換えると、この「学習」する機会を得ることができれば、人間は成長できる。よく言われる「仕事を通じて成長」というのも、学習機会を仕事の中に見出して、それによって出来なかったことを出来るようにしたというだけの話である。そして、この「学習」を楽しんで行うか、あるいは苦しい思いをして行うかは、人が成長できるかどうかという結果には直接的な関係がない。

 

抽象的な話なので、例を出そう。わかりやすいので、受験勉強のことを考えてみる。受験勉強は、現在の学力では合格点が取れないという状態を、試験日までに合格点が取れる状態に持っていくという意味で、間違いなく冒頭に挙げた「成長」の一類型である。

 

さて、では合格のためには勉強をする必要があるわけだが、これを苦しんで行う必要はどのぐらいあるのだろうか。昔は三当四落なんていう精神論が跋扈していた時代もあったが、こうやって睡眠を削って辛い辛い思いをした人だけが、合格できるのかというと決してそういうわけではない。勉強の中に楽しく学べる仕組みを見出して、ゲーム感覚で受験勉強をしていた人のほうが、結果的に合格しやすかったりする。僕自身、受験勉強は「楽しんでやる」ことを最優先事項として考え勉強に取り組み、学力向上を成し遂げたので、辛くて辛くてしょうがない勉強を最後まで我慢してやり通して成長した(=学力を上げた)という記憶はない。

 

結局、成長をするために必要なのは一定量の学習であり、その学習を苦しんで行うか、楽しんで行うかは成長の帰趨には関係ないのである。そして、苦しんでやるよりかは、楽しみながらやったほうが無理なく続けられるはずなので、「苦しんで成長する」というのは、「楽しみながら成長する」という方法と比べると、成長のしやすさという意味でも決して優れているとは言いがたい。

 

仕事が楽で、毎日残業せずに5時に帰っても、仕事の中に学習機会を見出すことができれば、人は成長することはできる。一方、仕事がどれだけ辛くても、学習機会が見いだせないような仕事であれば、成長はできない。「辛い仕事に耐えればその先には成長がある」というのは、決して正しいとは言えない。辛ければよい、というわけではないのである。

 

「辛さ」と引き換えに「成長」ができる、 といったようなことを言う人がいたとしたら、警戒することをおすすめする。「成長できるか、できないか」と「辛いこと」には関係がない。楽しみながらだって、人は成長できる。わざわざ辛い思いをする必要は、全くない。

 

苦しんで覚えるC言語

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