脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「頑張れない」という個性

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運動神経がいいとか、容姿が端麗であるとか、こういった性質は一般的にはその人の「個性」として捉えられる。「才能」と言い換えてもいい。こういった「個性」や「才能」は、基本的には生まれながらのものと考えられていて、例えば運動神経が悪い人が突然運動神経がよくなったりは基本的にはしないし、これについてはみんなそういうものだと受け入れている。世の中には運動が得意な人もいれば苦手な人もいることは当然で、例えば運動音痴の人に対して「なんでお前はプロ野球選手のように上手いプレーができないんだ、けしからん」とは普通は言わない。

 

このように、運動神経や容姿のような「誰が見ても生まれつきのもの」については、その能力を持っていなかったとしても、それについて強く批難されることは基本的にはない。生まれつきなのだから、責めたところでどうしようもない。中にはこういった生まれつきのものさえも批難の対象にする人がいるけど、そういうことをする人は大体残念な人として世間から評価される。

 

一方で、「努力すること」や「頑張ること」などといった、「一見、誰しもが平等にできるように思えること」については、みんな厳しい。AさんとBさんという人がいて、AさんがBさんよりも頑張っているシチュエーションでは、Bさんに対して「Aさんのようにお前ももっと頑張れ」というようなことは割と平気で言われる。「頑張ること」には才能や能力は関係がなくて、誰もがその気になりさえすればできるはずだ、という価値観が根底にあるように思える。

 

しかし、それは本当なのだろうか。「頑張ること」は誰でも同じようにできることで、頑張れないやつはただ怠けているだけという考え方は正しいのだろうか。僕には到底そうは思えない。「頑張れない」というのも、やはり究極的にはその人の個性なのだろう、と今では思う。 

 

例えば勉強について。僕は勉強はかなり好きなほうなので、仮に一日十時間ぐらい勉強しろと言われても結構苦しまずにできる自信があるのだけど、では一日三十分以上は机に座っていられない、とにかく勉強が辛くて辛くて仕方がないという人が僕より怠けているのかというと、そうとは必ずしも言えないと思うのだ。たまたま、その人にとっては勉強が「頑張れないこと」だった、というだけのような気がする。実際、僕は勉強についてはこれだけ頑張れたとしても、運動については一日三十分以上やろうとすると苦痛になる。どの分野でどのぐらい頑張れるのか、というのは結局人それぞれなのだろう。

 

こう考えると、「なんでお前はあの人のように頑張れないんだ」というのはその人の個性を無視した乱暴な物言いであるということが分かる。頑張れない人を怠け者だと断罪するのは簡単だが、どんなに言われても自分が頑張れないものはやはり頑張れない。頑張れないものを頑張れと叱責するより、「じゃあ、何だったら頑張れるか?」と考えてみたほうが建設的なのではないだろうか。

 

苦手なことを克服しようと頑張っている人は確かに立派で、そういう行動に心を打たれることもあるが、それを全員に求めても仕方がない。「頑張れない」というのもまたその人の個性だ。自分が「頑張れる」からと言って、このように「頑張れない」人を過度に責めたりしないようには気をつけたいものである。

 

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