脱社畜ブログ

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「みんなで頑張ろう」からはじまる相互監視と同調圧力

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皆勤賞:県立下総高3年の1クラス全員が達成 みなで協力、無遅刻・無欠席・無早退 /千葉
http://mainichi.jp/area/chiba/news/20130321ddlk12100117000c.html

 

この手の「皆勤賞をみんなで達成しました!」的なネタは、定期的に報道機関により美談として報道される。

 

「こういう話を美談にするな」という意見はネット上のあちこちで書かれていて、僕も完全にそれに賛同するのだけど、ではなぜこのようなニュースが定期的に出てくるのかというと、達成した本人たちやその周囲では「俺たちやったよ!快挙だ!」という空気が大勢を占めていて、取材自体も相当明るいテンションで行われたのだろうと推測される。僕が皆勤賞達成の現場に自ら出向いて行って、「君たちのやってることは決して褒められるようなことではないんだ」という話をしたとして、「こいつ、空気読めないこと言いやがって」と間違いなく思われるであろう。そのぐらい、現場の空気はネットの空気とは異なっていると思われる。

 

こういった「みんなで頑張ろう」という狂った空気が一度形成されてしまうと、それを一人の力で打ち破るのはかなり難しくなる。僕が仮にこの高校生たちのうちの一人だったとしたら、おそらく集団の圧力に負けて体の調子が悪くても無理をして学校に行っただろう。ちょっと体の調子が悪いぐらいで休んだら、みんなから何を言われるかわかったものじゃない。これと同じような感じで、「ホントは休みたいけど、村八分は嫌だから仕方がなく行く」という感じで皆勤賞達成に貢献させられた学生も、実際いたのではないだろうか。

 

「みんなで頑張ろう」という言葉は、字面こそいいものの、このような「目標達成に反する行動を取ったものに対する制裁の暗示」といった負の側面を持っている。特に、目標達成のインセンティブが個人に対してはほとんどなく、もっぱら達成できなかった場合のデメリットだけが目立つような場合には、「みんなで頑張ろう」は「みんなで相互監視して、裏切り者を出さないように目標を達成しよう」という側面が強くなる。日本史で五人組という制度を習ったと思うが、これと完全に一緒だ。

 

僕は、他人と力を合わせて一人では出来なかった目標を達成すること自体は否定しない。当然、一人で出来ることには限界があるわけで、さらに高い目標を達成するには協力は必要不可欠だろう。しかし、その目標達成は本当に構成員一人一人にとっても、達成するメリットがあるものなのだろうか。そうでないのだとしたら、この場合の団結はむしろ協力というよりは相互監視の意味合いが強いものということになる。

 

構成員が納得して協力をするようになるには、上で挙げたような(1)目標の達成が、集団だけでなく個人にとっても利益をもたらすものであることと、(2)参加に対しての完全に自由な選択権が、個人に留保されていることが必要である。皆勤賞の例は(1)、(2)の両方を欠くものに思えるし、会社における部署内での売上目標の達成にしたって、どれだけこれらの要件を満たしているか怪しいものだ。

 

「みんなで」を強調する人は、警戒するべきである。「みんなで」を声高に叫ぶことは端的に個人の自由を束縛することであるし、場合によってはそれで集団の空気や秩序が壊れることもある。「みんなで頑張った」からといって、それが必ずしもいい話になるとは限らないのだ。

 

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