脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

ネットで人に「死ね」ということについて

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色んなところで、色んな方が意見を書いているけど一応。

 

岩手県議:小泉氏死亡、自殺か 病院非難でブログ炎上
http://mainichi.jp/select/news/20130625k0000e040160000c.html
「死ねばいい」小泉県議の死を願った人々
http://togetter.com/li/524076

 

今回のニュースを見ていて、ふとネットをはじめたころのことを思い出した。

 

僕がネットをはじめたのは大体2000年前後で、当時はまだ今のように高速回線も普及しておらず、ブログなんてものもまだ登場していなくて、ネット上にはどこにでもいる個人の作ったホームページが溢れていた。個人ホームページには大体掲示板が設置してあって、流れ着いた人が「初カキコです」みたいな感じで書き込んで、他愛もない交流を楽しんでいた。中には議論をふっかけてくるような人もいたような気がするが、議論をするにしても基本的にはみんな丁寧で、いい意味でネットは「オタクっぽい」空間だったと思う。当時はネチケットなんて言葉もあって、ネット上で人と交流するためのマナーのようなものも、色々とあった。

 

だから、はじめて2ちゃんねるを見た時の衝撃はすごかった。「死ね」とか「吊ってこい」とかの罵詈雑言の嵐に、僕は目眩を感じた。自分が言われたわけではないのだが、不思議と胸の奥が締め付けられるような感じがした。

 

もっとも、これが彼らなりの挨拶のようなものだ、ということを知るまで、それほど時間はかからなかった。慣れてしまえば、いくら「死ね」と書かれていても、それを真に受けるようなことはしない。いつしか、僕は2ちゃんねるを楽しんで見れる程度の感覚を身につけるようになった。

 

その後、電車男のせいか、女子高生がAAを可愛いと思ったせいか、2ちゃんねるまとめサイトが乱立したせいか理由は定かではないが、2ちゃんねる的な文化はネット全体に広まった。同時に、ネット人口も爆発的に増えた。今はもう、ネチケットなんて言葉は完全に死語だ。そして、「死ね」という言葉も、ブログのコメント覧や、twitterなどでよく見かけるようになった。特に、炎上時は酷い。もっとも、書き込んでいる人たちが、本当に対象者に「死んでほしい」と思って書いているわけではないと思うけど。

 

正直、僕たちはネット上で「死ね」という言葉を見すぎてしまって、すっかり慣れてしまったんだろうな、と少し思う。「死ね」という言葉は、実際には十分重い言葉だ。本当に仲のいい友達に、冗談交じりで使うならともかく、道行く人にいきなり「死ね」と言ったりは普通しない。しかし、ネットだと顔も見たことがない初対面の人に、「死ね」という言葉を浴びせてしまう人が少なくない。これは結構おそろしいことだ。

 

はじめてネット上で「死ね」という言葉を見た時は、実世界で使われた場合と同じぐらいの言葉の重みを感じた。あの頃の言葉に対する感覚を、僕たちは少し思い出してみたほうがいいのかもしれない。

 

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