脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

ネットの「死ね」は積み上がる

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昨日書いたことについて、少し補足のようなものを書きたい。

 

ネットでは、あまりにも軽々と「死ね」と言ってしまう人が多いので、ネットの空気をよく知っている人にとっては、「死ね」というのは「バカ」と同じぐらいの意味にうつるのかもしれない。もっとも、罵倒された側が同じような認識をもっていなかった場合には、この「死ね」という言葉は本来の言葉と同じ重みをもってその人に降り注ぐことになるので、この点をまず注意する必要がある。昨日書いた話は、大体こんな感じだ。

 

もっとも、注意すればいいのはこれだけではない。仮に、言うほうも言われたほうも、ネット上での「死ね」という言葉の重みについて、それが「バカ」と同程度の意味だと思っていたとしても、このような暴言を他人に浴びせる前には、やはりよく考えたほうがいい。なぜかというと、ネットの暴言は、とんでもなく積み上がる可能性があるからだ。

 

顔も知らない通りすがりの第三者に、突然「バカ」と言われても、そこまで気に病む人はいないだろう。もちろん、愉快ではないが、せいぜい「なんか変なヤツに絡まれたなぁ」ぐらいの感想を抱くぐらいではないだろうか。ところが、こういって「バカ」と言ってくる人が10人、100人、1000人と増えていくと、さすがに正気ではいられなくなる。1つ1つの「バカ」の悪意は大したことがなくても、それが積み上がることで、「死ね」と言われた以上の悪意に変貌してしまう。

 

炎上時には、これと同じことが起こっている。匿名で、「死ね」とコメントを残していく一人一人の悪意は、実際にはそこまで大きくはないのだろう。ちょっとお灸をすえてやろう、ぐらいの気持ちなのかもしれない。しかし、それがとんでもなく積み上がることで、受け手は想像以上のダメージを受ける。

 

「ネットで相手に「死ね」という時は、本当に相手が死ぬかもしれないという覚悟をすべきだ」という意見をどこかで見たが、むしろ大事なのは覚悟よりも想像力ではないかと僕は思う。自分一人が「死ね」と言っても、たぶん受け手がそれで死ぬことはないだろう。でもこれが100人、1000人集まったら?その場合は受け手はどう思うだろうか?……そういうことを想像して、コメント覧なり何なりに書き込む必要がある。そこまで想像した上で、それでも相手を殺したいと思って書き込むのであれば僕には止められないが、赤の他人にそこまで積極的な悪意を抱いている人は基本的にはいないはずだ。

 

「死ね」という言葉に限らず、ネットの悪意は積み上がっていく。このことを忘れてしまうと、殺すつもりのなかった相手を殺すことにもなりかねない。

 

悪意 (講談社文庫)

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