脱社畜ブログ

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『お笑いジェンダー論』:「専業主婦」と「社畜」の密な関係

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瀬地山角先生の『お笑いジェンダー論』という本を読んだ。

 

お笑いジェンダー論

お笑いジェンダー論

 

瀬地山先生の『ジェンダー論』といえば東大教養学部ではほとんどの学生が知っている名物講義で、900番講堂(駒場で一番収容人数の大きい教室)はいつも多くの学生で埋め尽くされていた。もっとも、僕自身は講義を受けたことはなかった。先日、五月祭のとある企画を見に行ったのだけど、そこではじめて瀬地山先生の話を聞いて、「ああ、こんなに面白い話をする人だったら講義も受けておくんだったな」と少し後悔した。

 

この『お笑いジェンダー論』はそんな瀬地山先生によるジェンダー論の本なのだが、「お笑い」と謳っている割には、(瀬地山先生には大変申し訳無いのだけど)正直あまり笑えない。語り口はやわらかだが、内容はいたって真面目である。そういう意味で、抱腹絶倒必至であるとか、寝っ転がって適当に読めるということは決してないのだけど、面白い本であることは間違いない。

 

本書では、ジェンダー論についていくつかのトピックを取り上げているが、その中でも結構なページが割かれているのが「専業主婦」についてである。「専業主婦」というシステムは、労働力の再生産を担うために大正から昭和にかけて都市部で生まれたものだが、少子高齢化が大きな問題となりつつある現代では、ちょうど見直しの時期に来ている――そんな感じの議論が、本書では何度も重複して出てくる。

 

これを読んで僕が考えたのは「専業主婦」と「社畜」の関係についてだ。この二つは、とても密な関係にある。

 

「専業主婦」はもともとは役割分担の考えから出てきたものだ。旦那が稼ぐことを担当し、妻は家事・家計・育児などを担当する。そうすることで、世帯としては生活の糧を得ることと、次世代の労働力を育てることの両立がはかれる。妻には家事・家計管理・育児を行う責任があり、旦那には会社員としてしっかり家族が生活できるだけの給料を稼いでくる責任がある。そして、この「家族が生活できるだけの給料を稼いでくる責任」が、「社畜」の誕生に一役買っている。

 

自分だけではなく、配偶者・子供を養わなければならないとなれば、ちょっと嫌なことがあったぐらいでは会社を辞めるというわけにはいかない。悲しいことだが、妻や子供への責任から、「社畜」を選択せざるを得ないという人も実際いるだろう。「家族全員を食わせるだけの給料」を得るために、自分の能力以上の働きを要求されて、参ってしまうというパータンだってあるはずだ。「主婦」・「会社員」という役割分担が、旦那の「社畜を脱する自由」や「ほどほどに働く自由」を奪っているという側面は間違いなくある。

 

一方で、「主婦」・「会社員」と役割を分担してしまわずに、旦那も妻も稼ぎ、家事・育児も両方やるという構成をとることは、リスクの分散にもつながる。どちらかの収入が途絶えても、世帯の活動自体は直ちに停止しない。片方が一時的にどちらかに専念することで破綻を回避することもできる。もちろん、「社畜」的な労働を根本からなくしていくためには、企業側への働きかけを行うことも必要不可欠だが、少なくとも共稼ぎ・共家事育児体制を取れば、「社畜」からは逃げやすくなる。選択肢が多いということは、それだけで有利なのだ(夫婦で労働ポートフォリオを組む時代)。

 

もちろん、個人の価値観として専業主婦になりたい、あるいは仕事だけに集中したいという考え方は否定されてはいけない。そういう考え方も認められるべきだとは思う。ただ、今後そのような生き方はリスクが高いものになっていくので、そういう生き方を社会の標準とした制度自体は当然見直されていかなければならないだろう。

 

そういえば、こんなニュースが多少の反発と共に話題になっていた。

 

少子化相「家事育児しない男性ゼロに」  :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0100N_R00C13A9PE8000/

 

反発の原因になったのはおそらく「ゼロに」という言葉だ。家事育児をしないという態度も本人たちの合意があるなら、尊重されてしかるべきだろう。そういう意味で、「ゼロに」は言いすぎだ。ただ、「男性は家事育児をしない」という態度が今後社会のメインストリームであり続けることは難しいし、そうあるべきでもない。いざ「社畜」にされてしまった時に逃げるためにも、家事・育児は性別関係なく行えるようにしておいたほうが、いいのではないだろうか。