脱社畜ブログ

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教員の多忙問題をどう解決するか:「やりがい」で多忙は解消しない

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日本の公立学校の教員は、とんでもなく忙しい。毎日朝7時に出勤し、夜は24時帰宅、土日も部活動などで出勤があるなんて聞くと、「どこのブラック企業ですか」と聞きたくなるが、これは別にそれほど珍しい例でもない。詳しい統計データは例えば以下のサイトあたりに譲るとして、公立学校の教員が忙しいという事実に異論を唱える人はあまりいないだろう。

 

データえっせい: 教員の多忙の原因

 

この「教員の多忙化問題」は、教育問題が論じられる時には、よくセットになって出てくる。例えば、学校で「いじめ」が起きる原因の1つとして、教員が多忙すぎて生徒一人ひとりに目が行き届いてないからだと言われることがある。指導力不足教員が問題になることがあるが、これだってそもそも授業に関係しない業務が多すぎて、それで授業の準備時間が十分に取れないからだ、と考えることもできる。「教員の多忙化」は、多くの教育問題の根っこに潜む解決しなければならない事項であると言えるだろう。

 

これは教員に限った話ではないが、仕事が忙しいという状況を解消するには基本的に仕事の量を減らすか、あるいは仕事を処理する速度を上げるかのどちらかしかない。現実を見ると、教員の仕事は減るどころか増える方の要請ばかりが目立つ(生徒一人ひとりに目を行き届かせろ、質の高い授業をしろ、etc)。仕事の処理速度を上げるにしても、それには限界がある。そもそも、教員の仕事は業務効率化に馴染まないものも多い。多忙化問題を解決するには、やはり教員の「仕事の量」を減らすしかない。

 

教員の「仕事の量」を減らすための方法としてすぐに思いつくのは、教員の数を増やすという方法だ。これについては、文部科学省は2014年度の予算で増やすことを要求していたが、逆に減らすことを要求する財務省と折衝した挙句、最終的にはゼロ折衝になってしまった。

 

「少人数教育の推進」またも見送りに ‐渡辺敦司‐

 

「人を増やせば少人数教育が達成でき、それで学力も向上する」というロジックが妥当かどうかはともかく、少なくとも多忙問題を解決するために「人を増やす」ということは必ずどこかでやらなければならないだろう。そういう意味で、2014年度の予算の件は残念だ。

 

ただ一方で、増やせばそれでいいとも思わない。人を増やすことができればたしかに緩和はされるだろうが、無理に増やそうとすれば司法制度改革のように質が云々という話になりかねないし、増えた分だけ新しいことをやろうとしたら(例えば少人数学級)結局同じになってしまう。

 

そもそもの問題は、教員の仕事の範囲が無限定に拡大しすぎてしまっていることにあるのではないだろうか。今の日本の教員は、授業やそれの準備だけでなく、部活動の指導、学校行事の準備、生徒指導や進路指導、教材の発注、保護者への対応や家庭訪問などなど、およそ「学校」や「生徒」に関連する仕事ならなんでもさせられている。どれかひとつでも手を抜くと、「あの教員は問題だ」と言われてしまう。全部こなしてはじめて「普通の先生」とみなされる。

 

でも、それが「普通」なのは本当に正しいのだろうか?教員という職業は、一部の超人的な体力・精神力のある人しかなれないようなものすごい職業なのだろうか。それにしては、給料が安すぎやしないだろうか。そんなに難しいのなら、例えば医者や弁護士みたいにもっと高い能力を保証できるような資格試験を課したりすべきなのではないだろうか。

 

別に、「教員」を「医者」や「弁護士」のような難関資格にしろと僕は言いたいわけではない。その方法だと、社会が必要としている数を供給することが困難になるだろう。そうではなく、むしろ、「教員」の仕事を特別なものでなくすることを僕は主張したい。

 

具体的には、教員は「勉強」にまつわることだけ担当すればいいのではないだろうか。「授業」と「授業の準備」、そして「授業に関する」生徒の相談にのればそれで十分だ。それでは予備校の教師と変わらないではないかと言う人がいるかもしれないが、その通りだ。だから大した資格は必要ない。民間委託ができる可能性だってある。

 

一方で、生徒間のいざこざ解消であるとか、悩み相談のような業務は、そういう専門家が担当すればいい。今まで「担任」や「生徒指導」の教師が担ってきた役目を、それだけを専門に行う人がやるようになる。適切な資格はちょっと思いつかないが、必要なら新設してもいいだろう。少なくとも、こういう業務をする人が、授業を担当する必要はない。

 

部活動も、運動部ならスポーツトレーナー、文化部ならその分野の講師を雇えばいい。教材の発注などの雑務は、事務員が担当すればいいだろう。このように、学校運営にまつわる業務を専門分化し、それぞれ専門家に担当させる。そうすれば、「どの業務で人が足りてない」のかが明確になり、そこに重点的に人を補充することができるようになる。

 

「教師」と聞くと、四六時中生徒のことを考えて、プライベートもすべて生徒のために捧げる聖人のような人をイメージしそうになるが、現実問題としてそういう人をたくさん集めたり育成したりすることは無理だ。もちろん、そういう立派な先生だっておられるとは思うが、社会が一定数の教師を必要としている以上、教員という職業をこのような聖人に限定しておくのは得策ではないし、実際無理があると思う。

 

先日読んだ本に、『教師の多忙感を「やりがい」と「充実感」に』みたいなことが書いてあったが、『あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。』という本を書いた人間としては到底賛成することができない。「やりがい」という言葉でで過酷な労働条件を誤魔化そうとするのは、ブラック企業と変わらない。もっと現実に、教師の「仕事が減る」方法を模索しなければ、この問題は解決しない。

 

あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。

あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。