脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

学習院大学卒業生代表による謝辞への違和感

スポンサーリンク

学習院大学国際社会学部の卒業生代表による謝辞が話題になっている。

 

www.univ.gakushuin.ac.jp

 

話題になっているのは上のリンクの謝辞①のほうで、一部では「ロックだ」と褒める声も散見される。僕も読んでみたが、正直なところ、かなり違和感を覚えた。少なくとも、僕には到底「ロック」なものには思えず、むしろこの謝辞の背後に隠れている価値観のひとつは老害的ですらあると思う。

 

勘違いされそうなので少し詳しく書いておきたいのだが、僕は決して「謝辞なのに誰にも感謝をしていない」という点を問題だと思っているわけではない。むしろ「感謝する相手なんて思いつかない、強いて挙げるなら自分自身だ」という主張だけ取り出すなら、これはまあひとつの主張として成立はすると思う。たとえば、この人が「謝辞の挨拶になると、誰もが本当は感謝なんてしてない人に対しても上辺だけは感謝の言葉を述べる。それは茶番だ、こんなことには何の意味もない」とだけ書いて終わったというのであれば、儀礼的なものに対する純粋な反抗心を表明したものとして、もう少し好意的に受け止められたかもしれないと思っている。

 

ところが、この謝辞にはそういった「謝辞を述べる」という行為自体に反抗するだけにとどまらず、それとはまた違った価値観に基づく主張が挿入されている。

 

しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。

 

この2文が決定的に余計であり、これがあるせいで、この謝辞の「反抗」的な内容は台無しになってしまっている。

 

この2文を読む限り、この方は「権利」というものの性質について大きな勘違いをしているようだ。そもそも、権利は何かの対価として付与されるものではない。この謝辞では「素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった」と述べられているが、「おかしい」ことを「おかしい」と主張する権利は別に、素晴らしい学績を納めた人でなくても保障されてなければならないものだ。

 

たとえば、選挙権について考えてみて欲しい。現代の日本において、選挙権は何かの対価として付与されるものではない。かつては、選挙権を得るための条件として一定額の納税が要求されてきた時代があったが、今ではそうはなっていない。このことからも、権利が何らかの義務を果たさないと得られないという価値観で現代の民主主義は動いていないことが理解できる。

 

(↓詳しくは過去に書いた記事でも述べているので、興味ある方は参照してみてください)

 

dennou-kurage.hatenablog.com

 

そして、この「大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間」を批判するというのは、ブラック企業経営者であったり、あるいは政府の保守派のお偉方だったりが好んで行っていることでもある。こういった老害的な価値観が主張の裏に見えてしまっている時点で、僕にとってこの謝辞は「大きな違和感を覚えるもの」になった。

 

「自分の権利ばかり主張する人間」を批判する意見は、日常レベルではよく耳にする話ではある。だから、これを何の疑いもなく、あたりまえだと思っている人も多い。ただ、そこで思考停止してはいけない(「思考停止」することに対する批判はこの謝辞にも出てくる)。そういう「あたりまえ」を疑って解体していく姿勢を身につけることこそ、大学生が在学中にやらなければならないことだ。「思考停止」を批判するなら、こんな手前の部分で思考停止してしまわないでほしかったと個人的には思う。

 

ちなみに、一番感心したのはこの謝辞の内容よりも、この謝辞をそのままサイトに掲載した学習院大学である。

 

※謝辞①は内容が謝辞として相応しくないといった意見もありましたが、本学部は多様な意見を尊重しオープンな開かれた学部でありたいと考え、原文のまま掲載しております。

 

今後も、大学はそういった開かれが議論が行われる場であってほしいと思う。