脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

生産性のない単純作業で達成感を得てしまった

確定申告の時期である。僕は昨年に会社を辞めて独立したので、本格的な確定申告は今回が初めてだ。

 

定期的に仕訳をしたり、領収書を整理したりしておけばよかったのだけど、考えるのが面倒で伸ばし伸ばしにしていたら、申告の直前になって大量の事務作業が生じてしまった。事業用の口座と個人用の口座をしっかり分離していなかったこともよくなかった。ここ数日は、ひたすら会計ソフトと通帳と領収書を眺め続け、数日前になってようやく申告を済ませることができた。

 

申告について色々と反省点はあるものの、とりあえずは申請を終わらせることができ、僕は少なからず達成感を得ていた。久々に、「いやあ、よく働いたなあ、頑張った、頑張った」という気持ちになった。その日の夜は嬉しかったので、ちょっと高いビールを飲んでいい気持ちになっていた。しかし、冷静になって考えると、これで喜んでしまうのは結構マズい。

 

申告のためにはたしかにそれなりの量の作業をしたのだけど、基本的にこの手の作業に生産性はない。もちろん、帳簿の付け方を間違えば税金の額が変わってくるゆえに、そういう意味では生産性があるのかもしれないが、少なくともこれは新しく「稼ぐ」ような行為ではない。いくら領収書を綺麗に貼って、完璧な帳簿を作ったとしても、それだけではお金は入ってこない。経理担当の会社員だったらそれだけでも給料がもらえて生活できるが、フリーランスの場合は記帳だけでは生活できない(記帳代行請負事業をはじめる場合はともかく)。

 

青色申告承認申請書を出した以上、記帳は「やらなければならないこと」ではある。だから、やらないことはマイナスになる。でも、やったからと言ってそれでプラスというわけでもない(青色申告控除が65万円分あるのでそういう意味ではプラスなのだけど)。やるのが当然だ。そういう事務作業とは別に、本業は本業でしっかり稼がないと、個人事業は成立しない。

 

そんなことはフリーで働いている人なら誰でも分かっていることなのだろうけど、これは会社員の場合とは根本的に異なることだ。会社員は、別に自分の提供する労務が売上に結びつかなくても、給料をもらうことができる。たまに、「売上に貢献してないのに権利ばかり主張するな」ということを言う人がいるけど、それは経営者の理屈であって従業員の理屈ではない。一定時間、会社の命令にしたがって労務を提供したのであれば、その対価は当然に受け取っていい。雇用契約とはそもそもそういうものだ。だから会社員は、生産性のない単純作業で達成感を得てもいい。

 

フリーで働くなら、生産性のない単純作業で達成感を得るのはマズい。少なくとも、ずっとそれだけをやっているといつか沈む。会社員には色々と理不尽なことがたくさんあって、独立はそういうことから離れる自由を与えてくれるが、そのままフリーで居続けたいのであれば、(何らかの形で)ずっと生産をしつづけなければならない。

 

フリーランスでも、あるいは起業をするにしても、ほとんどの物事を自分自身でやらなければならない場合、必ずしも生産的とは言えないような事務作業はたくさんある。これらはやらなければならないことではあるが、やったからと言って本業が儲かるわけではない。だから、この手の事務作業で達成感を得てしまうのは危険なことだ。きれいなノートを作って、それで勉強をした気になってしまうのに似ている気がする。達成感を得るなら、生産的なことをして少しでも儲かった時に得るようにしたいものだ。

 

フリーランスを代表して 申告と節税について教わってきました。

フリーランスを代表して 申告と節税について教わってきました。

 

 

「ただの知識」だけ学校で教えてもあまり役には立たない

ちきりんさんが、何やらまた議論を呼びそうな記事を書いていた。

 

 下から7割の人のための理科&算数教育 - Chikirinの日記

 

そして、有力な批判はこちら。

 

ちきりん氏のお粗末な科学教育論 - バッタもん日記

 

ちきりんさんのパーソナリティに言及した部分はともかく、ちきりんさんの意見に対する批判については、僕もこの方とほぼ同意見である。どんな職業についてる人でも、今の仕事に100%役立つことだけ学んできたなんてことはありえないし、少なくともそういう最適化を高校生ぐらいまでにしてしまうことは、最適化をしていると見せかけてただ単に自分の可能性を狭めているだけだ。

 

この議論を見ていてしみじみと感じるのは、「ただの知識」と「体系的な知識」では有用性がぜんぜん違う、ということだ。例えば、ちきりんさんは学校では「生活するために必要な科学知識」として以下のようなものを教えるべきだと主張している。

 

・リボ払いを選んだ場合の利子の額

・大半の人が選んでしまう住宅ローンの“元利均等払い”の恐ろしさ

・命にかかわる病気になった時、治療方法をどう選べばよいのか

・妊娠のメカニズムと、不妊治療やその限界など

・副作用も指摘されてるワクチンを勧められたんだけど、摂取すべきかどうか、どう考えて決めればいいのか?

・太っちゃって、脂肪吸引に興味があるんだけど、大丈夫かな?

・トイレ掃除のとき、何と何の洗剤を一緒に使うと危ないのか (もしくは、ガスファンヒーターの前にヘアスプレーのカンがあったら、どれほど危ないのか)

・ホテルで火事にあったら、煙は上下、どっちに流れるのか

・天ぷら油から火がでたら、水をかけるのとマヨネーズをかけるのはどっちがいいのか。なければケチャップでもいいのか?

・イオンのでる家電って、なんか意味あるの?

放射能が怖いんだけど、ラジウム温泉でダイエットするのは大丈夫?

 

たしかに、これらの事項が理解できていないために現実の生活で損をしている人は少なからずいる。モノによっては、学校で教えることは決して悪いことではないだろう。ただ、実際のところこういう知識を「バラバラと」教えたとしても、役に立つ範囲はものすごく狭い。ちょっと問題設定が変わればすぐに使えなくなる。例えば、リボ払いの危険性だけ理解できても、仕組みが違う金融商品に出会ったらまた同じように騙される可能性は残る。イオンの出る家電には意味がないと分かっても、他の種類の物質の健康効果を謳った健康器具にはまだ騙されるかもしれない。

 

結局、知識をバラバラに入れただけでは、全然応用が効かないのだ。ちきりんさんが挙げた「生活するために必要な科学知識」というのは、結局のところ科学の「応用例」に過ぎない。しかも、これらは今現在、この社会においては役に立ちそうな応用例だ。時代が変われば、役に立つことは当然変化する。子供が大人になるころに役に立ちそうな応用例をピンポイントで予想することはできないし、すべきでもない。大事なのは、その場で「自分のアタマで考えて」対応できるようになることではないだろうか。自分のアタマで考えるには、バラバラの知識ではなんとも心もとない。

 

だから僕たちは、中等教育までで「ただの知識」ではなく「体系的な知識」を学ぶ必要がある。受験が終われば誰だって細かい話は忘れてしまうが、一度体系的に学んだことは「自分のアタマで」考える時に大きな力を発揮する。忘れてしまったものも、体系に住んでいる知識であればまた調べて思い出せるし、新しい何かを「調べる」時にもアタリがつけやすくなる。他の分野の概念を、違う分野に転用することもできるようになる。「ただの知識」と「体系的な知識」では、応用の幅が全然違うのだ。「ただの知識」は即効で陳腐化するが(忘れたり古くなったら終わり!)、「体系的な知識」は一生モノだ(忘れても調べて思い出せるし、仮に古くなっても概念や思想は転用できる)。

 

そういう観点で考えると、現在の高校のカリキュラムも「体系的な知識」の伝達のためにはまだまだ足りない部分があると言える。例えば、数学の「数1」とか「数2」とかいう区分は少なくとも数学の体系上の要請ではない。「解析学」や「線形代数」のような区分にしたほうがいいように思える。また、物理で微積分を使わないで力学をいい加減に教えたりするのも無理がある。物理の授業はまず微積分から入るのがスジだ。こういう体系無視のカリキュラムが、数学や物理などの科学教育を「公式の暗記大会」にしてしまい、「現実では何の役にも立たない」という批判を生むことになるのかもしれない。

 

「生活するために必要な科学知識」はたしかにキャッチーだが、そういうのは学校ではなく、テレビあたりの担当分野のように思える(そちらのほうが効果も高いだろう)。そういう役目を担うべきテレビが先頭に立って疑似科学の宣伝を行っている現在の状況をまず是正すべきだろう。

 

「知識をバラバラに覚えることが勉強だ」と勘違いする人を増やすような教育を行えば、未来へのダメージは計り知れない。それは結局、自分のアタマで考えられない人を大量生産することになるんじゃないだろうか。

 

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう