脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「逃げ」の転職で何が悪い

先日、友人から転職の相談を受けた。話を聞いてみると結構深刻で、なんだか僕まで暗い気持ちになってしまった。詳細は書くわけにはいかないので適当に省略して書くが、どうやら彼は仕事そのものについては特にそれほど不満があるわけではないものの、人間関係にすっかり参っているらしい。

 

彼はまず上司との相性が絶望的に悪いという話から入ったが、詳しく聞いてみるとこれはもう企業カルチャー自体が彼にさっぱり合っていないように思われた。たまたま今の上司との相性が悪いだけだというのであれば、立ち回り方次第では今の会社にとどまりつつもっと働きやすい環境に移ることもできるかもしれない。しかし会社そのものと相性が悪いとなると、これはもう転職なり独立なりの手段で環境を変える以外になかなか楽になる方法は見つからない。こういう時は、とりあえず会社の外の環境に目を向けるといい。そういう意味で、彼が今転職を検討していることは行動のベクトルとしては非常に正しい。僕は強く応援すると言った。

 

ところが、彼自身は強く転職に踏み切れないでいるらしい。理由を聞くと、人間関係を理由に転職するのは、「なんだか逃げているようで後ろめたい」からだという。たとえばいま会社でやっている仕事が自分の実力よりも程度が低いもので、もっとチャレンジングな仕事をするために転職するというならそれは納得できるが、いま一緒に働いている人が合わないというだけで会社を移るというのはすごくネガティブな感じで気が引ける――そう彼は説明してくれた。

 

たしかに、これと似た趣旨のことを言う人たちはいる。「嫌なことから逃げる気持ちで会社を変えても、また新しい会社で嫌なことがあったら同じように逃げるので、そういう人はジョブホッパーになって最終的にはキャリアを壊す」というアドバイスも僕は会社員時代に耳にしたことがあるが、正直こういう意見はどうかと思う。今の環境に問題があるなら逃げるのは当然で、むしろここで逃げないと心や体を壊して取り返しがつかなくなるおそれだってある。転職の理由が「逃げ」であることで悪いことなんてひとつもない。

 

そもそも、「逃げ」の要素が一切ない転職なんて存在するのだろうか。「もっと大きな仕事をしたい」という一見ポジティブっぽい理由で転職する人だって、結局は「今の会社で自分がやりたい仕事はできない」という不満から「逃げ」るために転職をするわけで、広い意味では今の環境から逃げていることに変わりはない。理由がなんであれ、「環境を変えたい」と思うのであれば転職を検討することは至極自然なことで、後ろめたさを感じる必要はまったくないんじゃないだろうか。

 

会社員時代、転職慣れしている先輩がよく自分の経歴を語りながら「◯◯社は酷かったのですぐ逃げた」という話をしていたことを思い出す。その先輩はとても仕事ができて頼りになる人だった。しかも、会社を内部からだけでなく外部からの視点でも見ることができる人だったので、話していてとても面白かったしためにもなった。この先輩を見ていると、「逃げ」の転職で人がダメになるなんて絶対にウソだと思う。環境を変えることをそんなつまらない理由でためらってはいけない。むしろ逃げないことで、失っているものも多くある(時間、心身の健康、etc)ことに気づくべきだ。

 

転職エージェントの選び方と比較の軸

ブログは毎日更新しないほうがいいかもしれない

ブログの更新をサボっていたら、前回の更新が155日前とかになってしまった。まあ前回更新した時点でもう月に1回とかのペースになっていたのだけど、今回はさすがに放置しすぎたように思う。個人的にはもうちょっと頻度を上げて書いていきたいと思っているのだけど、いざPCの前に座ると「明日にしよう」という気持ちになり、それを何度も続けているうちに155日が経過したわけで、自分の意志力の低さはなかなかのもんだと思わずにはいられない。

 

なぜこうも放置し続けてしまったのか。最近、ちょっと忙しくなったからというのはあるかもしれない。もっとも、それでも毎日深夜残業に追われていた社畜会社員時代と比べれば遥かに時間にゆとりはあるわけで、忙しさだけに理由を求めるわけにはいかないだろう。会社員時代は平日時間が取れなかったので、土日に7個記事を書きためて、毎日夜に会社からこっそり更新ボタンを押してなんとか毎日更新を維持していた。今は書こうと思えば平日だって記事のひとつやふたつ書く時間はあるので、当時の半分でもやる気があれば、155日間ブログを放置するようなことにはならない。

 

結局のところ理由は単純で、書くことが少なくなってきたというのが正直なところだろう。このブログをはじめた時は日本の仕事観について言いたいことだらけだったので毎日書いても書いてもネタはなくならないという感じだったのだが、当然ながらその状態は永久には続かない。一度書いたことは(視点や粒度を変えて再度書くことはあっても)そのままもう一度書くことは普通しないので、ブログは更新すれば更新するほど書く内容が減っていく宿命を帯びている。

 

このことを僕のブログに限定せずブログ全般に一般化して考えてみると、あるテーマを持って更新しているブログは書けば書くほど書ける内容が減っていく、と言えそうだ。それでも永続的にブログを書き続けていきたいのであれば選択肢は2つある。(1)当初設定したテーマより広いテーマを扱うようにするか、(2)新しく情報をインプットして書ける内容を増やしていくかだ。

 

(1)は延命にはなるが、あまり本質ではない。新たにテーマを設定しても、そのテーマでまた書き尽くせば新しく何かを書くのが困難になるのは変わらないので、結局のところ(2)のインプットをまめにやっていく以外に、ブログの質を担保しながら更新を続けていくことはできない。プロブロガー界隈の記事を読んでいるとたまに「ブロガーは書いてナンボだ、ネタが無くても毎日更新だ」という主張を見ることがあるが、むしろ大事なのは書くことよりも読んだり見たり話を聞いたりといったインプットなんじゃないかと僕は思う。何か情報を発信したいと思うなら、まずは発信できるだけの情報を自分の中に蓄えなければいけないのはあたりまえだ。

 

立花隆の本を読んでるとたまに出てくる概念に「IO比」というのがある(『知のソフトウェア』『ぼくはこんな本を読んできた』など)。IO比とは知的生産をする際のインプットとアウトプットの比率のことで、これが高ければそれだけ情報密度は高くなり、クオリティが保証される。立花隆が言うには、本を1冊書くなら最低でもIO比は100ぐらいは必要なのだそうだ。これはつまり、1冊本を書くために本を100冊読むということで、そのぐらいインプットしないとよいアウトプットは出ないということである。

 

ブロガーがIO比100を保つというのはさすがに現実的ではないと思うものの(そういうブログがあるなら強く読みたいと思うが)、世の中にはIO比が1を切っている状態のブロガーも少なくない気がする。それはそれでアウトプット自体が楽しければ別にいいとは思うものの、少しでも苦しいと思ったらその時は意図的にアウトプットを止めてインプットを増やしてみるといいと思う。しばらくネットに何も書かずに本を読んだり人に話を聞いたりすることを中心に生活していると、薄くなった空気が供給されて息が楽になるような、そんな気持ちになるはずだ。ブログの毎日更新にこだわる必要はまったくない。

 

実は僕も最近まで、アウトプット過剰で自分がカラカラに乾いていくような気持ちになっていた。なので少し意識的にインプット中心の生活をしていたのだけど、そうすると不思議とまた何かアウトプットしたいという気持ちがやってくる。

 

ということで、またゆるりと更新していこうと思います。

 

ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論 (文春文庫)

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「知」のソフトウェア (講談社現代新書)

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