脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

最近の有料note問題に見る"有料のほうが「コンテンツが面白い」"の大嘘

どうやら最近、「ブログをやめてnoteに行こう、無料コンテンツよりも有料コンテンツだ」みたいなことを言っている人が一部でいるらしく、そういう話題をはてなブックマークなどで見る機会が非常に多くなってきているような気がする。

 

個人的な感想としては、良質なコンテンツを発信できる人がそれをお金に変える手段が増えたことについてはよいことだと思う。noteも、あるいは同じ会社のcakesも、ネットの「とりあえずどんな内容でもいいからPV取った者勝ち」的な傾向に一石を投じる可能性をもったメディアなので、ネットのそういった煽り記事に飽き始めているひとりのユーザーとしてはそれなりの期待は持っている。

 

ただ、現時点でnoteで出回っている有料記事を見てみると、残念ながら現実は厳しいと思わざるを得ない。僕の観測範囲では、noteの有料記事の98%は値段に見合ったクオリティに達しているとは思えない。そういう記事にありがたがって課金するぐらいだったら、ブックガイドを持って本屋にでも行ったほうが何倍も密度の高い情報に接することができるだろうし、かかるお金も少なく済むだろう。

 

某ブロガーがコンテンツは無料より有料のほうが面白くなると書いていたが、それはコンテンツを生み出すために相応のコストをかけた場合にだけ言える話だ。たとえば綿密な取材を行い、時間をかけて執筆し、徹底的な推敲がなされ、さらには編集者の手による編集と校閲が入り……というコストがコンテンツの価格に転嫁された結果、有料になってしまうというのであれば「無料より有料の記事のほうが面白い」というのは正しいということになるだろう。ところが、現状有料で売られているコンテンツはそういうふうな「労力が転嫁した結果のプライス」として有料になっているようには思えない。もちろん、有料記事なんだからということで著者なりのサービスが多少はあるのだろうけど、クオリティとしては「よくできた無料記事」ぐらいが実際のところだと思われる。

 

もっとも、一部の人の有料noteは売れているし、結構な利益も出ている。それはたしかに事実だ。ただ、これはもうみんな薄々気づいているだろうけど、これらの売れてるnoteはコンテンツの力で利益が出ているわけではない。その人の絶大な支持層が、コンテンツの内容や値段に関係なく買っているだけだ。よく言えばファンクラブ、悪く言えば新興宗教の集金モデルとあまり変わらない。こうなってしまうと、作り出すコンテンツのクオリティと売上は比例しなくなってくる。この手の有料課金ビジネスモデルを採用した時点で、その人のコンテンツは面白くなるどころか、他の人から見ればどんどん無価値で面白くないものになっていく。

 

「とにかく炎上させて煽った者が勝てる」というのが無料コンテンツの世界だとしたら、現状の有料コンテンツは「価値に見合わないコンテンツにも金を払う信者を囲い込んだものが勝てる」という世界になってしまっている。果たして、これが目指すべき場所なのだろうか。「良質なコンテンツを作った人が一番儲かる」という世界が作る側にとっても消費する側にとっても理想だと思うのだけど、有料noteが情報商材売り場みたいになってしまっている現状を見ると、そういう世界がネット上に到来する日は来ないのかなと絶望せざるをえない。

 

 

難しいことはわかりませんが、お金の増やし方を教えてください!

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「トレードオフ」を飼いならせなかった2015年の反省文

2015年もあと数時間で終わろうとしている。みんなやっていることなのだけど、軽い振り返りなどをしてみようと思う。

 

2015年は、個人的にはあまり振るわない1年だった。やりたいことはあれもこれもと膨らんだのだけど、その分ひとつの活動に十分に集中することができず、結局は全体的に何もできなかったような一年だった。ご存知のようにブログの更新も停滞したが、ではその分何か別の活動が捗ったかと言われるとそういうこともない。

 

2015年を一言であらわすなら「トレードオフをうまく飼いならせなかった一年」ということになるかもしれない。Aという活動に時間を割けば、その分だけBという活動に割く時間がなくなる。こんなことは小学生でも理解できる単純なことだと思うのだけど、いざ何かをしようとすると「AもBも」やろうとしてしまう。実際にはAもBもどころではなく、AもBもCもDもEもFもぐらいあれこれとやりたいことを分散させてしまったので、なんだか全体的に停滞してしまった。せめて優先順位をつけて直列に実行していくべきだったと思うのだけど、今更遅い。

 

唯一、結構な時間を費やせたと思うものに、読書がある。今年はインプットに集中しようと決意して本を去年の2倍ぐらいは読めたのでその点ではなかなか充実していたとは思う。しかし、選書がベストだったかと言われると微妙だ。どうも「自分が本当に読みたい本」ではなく「読んだほうがよいと世の中では言われている本」みたいなものばかり中心に読んでいたようで、いざ大晦日になって今年読んだ本リストを眺めていると「ホントに、この本読む必要あったのかな?」と思う本が何冊もあって、つくづく読書は難しいと思う。くだらない本を一冊読めば、その分他の重要な本を読む時間がなくなる。読書も結局、トレードオフが重要な営みだということだろう。

 

せっかくなんで、そうやって今年読んだ本の中で個人的に面白かったと思った本を1冊ここで紹介して今年の更新を終わろうと思う。

 

東大駒場寮物語

東大駒場寮物語

 

個人的に、今年のナンバーワンは文句なくこの本だった。

 

本書は、駒場寮第132期寮委員長を務めた著者によるノンフィクションで、駒場寮の歴史や1990年代〜廃寮に至るまでの実際の駒場寮の様子などが、著者の経験を交えて詳述されている。前半は駒場寮に住む奇人の奇天烈な行動や逸話に腹を抱えながら読んだが、後半、駒場寮が廃寮へと追い込まれていく過程を読むのは切なく涙なしには読めなかった。

 

僕が東大に入ったころにはもう駒場寮は壊されてしまった後で、アーチが遺構のようにポツンと残っているだけだったのだけど、先輩あたりから聞く駒場寮の話はかなりエキサイティングで、駒場寮についてはもっと色々と知りたいと思っていた。この本を読み終わってしみじみと思うのは、東大は本当に、取り返しのつかないことをしてしまったんだなということだ。今からもう駒場寮のような場所を東大につくることはかなり難しい、というかもう無理だろう。コミュニティを壊すのは容易いが、壊したコミュニティをもとに戻すことはできない。

 

駒場寮の廃寮が後世に与えた影響はかなり大きいだろう。それがいい影響なのか悪い影響なのかは正直なところわからない。駒場寮があったおかげで人生を踏み外した人は少なくないことを考えると、駒場寮がないことで人生を踏み外さないで済んだ人もいることになる。実際、僕の友人にも駒場寮なんかに出入りしていたらきっと卒業できなかっただろうなぁ、と思う人はいる。ただ、ストレートに卒業することだけが本人にとって本当にいいことだという保証もないので、一概にいい影響とも言えない。ひとつだけ言えるのは、あるはずだったコミュニティがないことで、人生が大きく変わった人は間違いなくいるだろうということだ。コミュニティを破壊したり、あるいは新しく作ったりするということは、現在そのコミュニティに属している当事者だけでなく、未来に属する可能性があった人にも強い影響を及ぼす。

 

僕の学生時代にもし駒場寮があったら入寮したかと問われたら、正直わからないと答えざるを得ない。一人暮らしを選んでしまったんではないかなぁという気もする。それでも、駒場寮がなくなってしまったことは残念だ。東大は駒場寮を廃寮にすることで、間違いなく何かを喪失した。もしかしたら、その影響はとんでもなく大きかったのかもしれない。そんなことを考えながら、2015年を終える。