脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「トレードオフ」を飼いならせなかった2015年の反省文

2015年もあと数時間で終わろうとしている。みんなやっていることなのだけど、軽い振り返りなどをしてみようと思う。

 

2015年は、個人的にはあまり振るわない1年だった。やりたいことはあれもこれもと膨らんだのだけど、その分ひとつの活動に十分に集中することができず、結局は全体的に何もできなかったような一年だった。ご存知のようにブログの更新も停滞したが、ではその分何か別の活動が捗ったかと言われるとそういうこともない。

 

2015年を一言であらわすなら「トレードオフをうまく飼いならせなかった一年」ということになるかもしれない。Aという活動に時間を割けば、その分だけBという活動に割く時間がなくなる。こんなことは小学生でも理解できる単純なことだと思うのだけど、いざ何かをしようとすると「AもBも」やろうとしてしまう。実際にはAもBもどころではなく、AもBもCもDもEもFもぐらいあれこれとやりたいことを分散させてしまったので、なんだか全体的に停滞してしまった。せめて優先順位をつけて直列に実行していくべきだったと思うのだけど、今更遅い。

 

唯一、結構な時間を費やせたと思うものに、読書がある。今年はインプットに集中しようと決意して本を去年の2倍ぐらいは読めたのでその点ではなかなか充実していたとは思う。しかし、選書がベストだったかと言われると微妙だ。どうも「自分が本当に読みたい本」ではなく「読んだほうがよいと世の中では言われている本」みたいなものばかり中心に読んでいたようで、いざ大晦日になって今年読んだ本リストを眺めていると「ホントに、この本読む必要あったのかな?」と思う本が何冊もあって、つくづく読書は難しいと思う。くだらない本を一冊読めば、その分他の重要な本を読む時間がなくなる。読書も結局、トレードオフが重要な営みだということだろう。

 

せっかくなんで、そうやって今年読んだ本の中で個人的に面白かったと思った本を1冊ここで紹介して今年の更新を終わろうと思う。

 

東大駒場寮物語

東大駒場寮物語

 

個人的に、今年のナンバーワンは文句なくこの本だった。

 

本書は、駒場寮第132期寮委員長を務めた著者によるノンフィクションで、駒場寮の歴史や1990年代〜廃寮に至るまでの実際の駒場寮の様子などが、著者の経験を交えて詳述されている。前半は駒場寮に住む奇人の奇天烈な行動や逸話に腹を抱えながら読んだが、後半、駒場寮が廃寮へと追い込まれていく過程を読むのは切なく涙なしには読めなかった。

 

僕が東大に入ったころにはもう駒場寮は壊されてしまった後で、アーチが遺構のようにポツンと残っているだけだったのだけど、先輩あたりから聞く駒場寮の話はかなりエキサイティングで、駒場寮についてはもっと色々と知りたいと思っていた。この本を読み終わってしみじみと思うのは、東大は本当に、取り返しのつかないことをしてしまったんだなということだ。今からもう駒場寮のような場所を東大につくることはかなり難しい、というかもう無理だろう。コミュニティを壊すのは容易いが、壊したコミュニティをもとに戻すことはできない。

 

駒場寮の廃寮が後世に与えた影響はかなり大きいだろう。それがいい影響なのか悪い影響なのかは正直なところわからない。駒場寮があったおかげで人生を踏み外した人は少なくないことを考えると、駒場寮がないことで人生を踏み外さないで済んだ人もいることになる。実際、僕の友人にも駒場寮なんかに出入りしていたらきっと卒業できなかっただろうなぁ、と思う人はいる。ただ、ストレートに卒業することだけが本人にとって本当にいいことだという保証もないので、一概にいい影響とも言えない。ひとつだけ言えるのは、あるはずだったコミュニティがないことで、人生が大きく変わった人は間違いなくいるだろうということだ。コミュニティを破壊したり、あるいは新しく作ったりするということは、現在そのコミュニティに属している当事者だけでなく、未来に属する可能性があった人にも強い影響を及ぼす。

 

僕の学生時代にもし駒場寮があったら入寮したかと問われたら、正直わからないと答えざるを得ない。一人暮らしを選んでしまったんではないかなぁという気もする。それでも、駒場寮がなくなってしまったことは残念だ。東大は駒場寮を廃寮にすることで、間違いなく何かを喪失した。もしかしたら、その影響はとんでもなく大きかったのかもしれない。そんなことを考えながら、2015年を終える。

 

ブログは毎日更新しないほうがいいかもしれない

ブログの更新をサボっていたら、前回の更新が155日前とかになってしまった。まあ前回更新した時点でもう月に1回とかのペースになっていたのだけど、今回はさすがに放置しすぎたように思う。個人的にはもうちょっと頻度を上げて書いていきたいと思っているのだけど、いざPCの前に座ると「明日にしよう」という気持ちになり、それを何度も続けているうちに155日が経過したわけで、自分の意志力の低さはなかなかのもんだと思わずにはいられない。

 

なぜこうも放置し続けてしまったのか。最近、ちょっと忙しくなったからというのはあるかもしれない。もっとも、それでも毎日深夜残業に追われていた社畜会社員時代と比べれば遥かに時間にゆとりはあるわけで、忙しさだけに理由を求めるわけにはいかないだろう。会社員時代は平日時間が取れなかったので、土日に7個記事を書きためて、毎日夜に会社からこっそり更新ボタンを押してなんとか毎日更新を維持していた。今は書こうと思えば平日だって記事のひとつやふたつ書く時間はあるので、当時の半分でもやる気があれば、155日間ブログを放置するようなことにはならない。

 

結局のところ理由は単純で、書くことが少なくなってきたというのが正直なところだろう。このブログをはじめた時は日本の仕事観について言いたいことだらけだったので毎日書いても書いてもネタはなくならないという感じだったのだが、当然ながらその状態は永久には続かない。一度書いたことは(視点や粒度を変えて再度書くことはあっても)そのままもう一度書くことは普通しないので、ブログは更新すれば更新するほど書く内容が減っていく宿命を帯びている。

 

このことを僕のブログに限定せずブログ全般に一般化して考えてみると、あるテーマを持って更新しているブログは書けば書くほど書ける内容が減っていく、と言えそうだ。それでも永続的にブログを書き続けていきたいのであれば選択肢は2つある。(1)当初設定したテーマより広いテーマを扱うようにするか、(2)新しく情報をインプットして書ける内容を増やしていくかだ。

 

(1)は延命にはなるが、あまり本質ではない。新たにテーマを設定しても、そのテーマでまた書き尽くせば新しく何かを書くのが困難になるのは変わらないので、結局のところ(2)のインプットをまめにやっていく以外に、ブログの質を担保しながら更新を続けていくことはできない。プロブロガー界隈の記事を読んでいるとたまに「ブロガーは書いてナンボだ、ネタが無くても毎日更新だ」という主張を見ることがあるが、むしろ大事なのは書くことよりも読んだり見たり話を聞いたりといったインプットなんじゃないかと僕は思う。何か情報を発信したいと思うなら、まずは発信できるだけの情報を自分の中に蓄えなければいけないのはあたりまえだ。

 

立花隆の本を読んでるとたまに出てくる概念に「IO比」というのがある(『知のソフトウェア』『ぼくはこんな本を読んできた』など)。IO比とは知的生産をする際のインプットとアウトプットの比率のことで、これが高ければそれだけ情報密度は高くなり、クオリティが保証される。立花隆が言うには、本を1冊書くなら最低でもIO比は100ぐらいは必要なのだそうだ。これはつまり、1冊本を書くために本を100冊読むということで、そのぐらいインプットしないとよいアウトプットは出ないということである。

 

ブロガーがIO比100を保つというのはさすがに現実的ではないと思うものの(そういうブログがあるなら強く読みたいと思うが)、世の中にはIO比が1を切っている状態のブロガーも少なくない気がする。それはそれでアウトプット自体が楽しければ別にいいとは思うものの、少しでも苦しいと思ったらその時は意図的にアウトプットを止めてインプットを増やしてみるといいと思う。しばらくネットに何も書かずに本を読んだり人に話を聞いたりすることを中心に生活していると、薄くなった空気が供給されて息が楽になるような、そんな気持ちになるはずだ。ブログの毎日更新にこだわる必要はまったくない。

 

実は僕も最近まで、アウトプット過剰で自分がカラカラに乾いていくような気持ちになっていた。なので少し意識的にインプット中心の生活をしていたのだけど、そうすると不思議とまた何かアウトプットしたいという気持ちがやってくる。

 

ということで、またゆるりと更新していこうと思います。

 

ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論 (文春文庫)

ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論 (文春文庫)

 
「知」のソフトウェア (講談社現代新書)

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