脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

情報収集手段をひとつに絞るのは愚策

以下の記事を読んで。

 

テレビを見ない人がいるなんてびっくり - Chikirinの日記

 

僕はほとんどテレビを見ないのだけど、それはあくまで「ほとんど」であって「まったく」見ないわけではない。ちきりんさん同様、リアルタイムで見る番組はほとんどないのだけど、毎週録画すると決めている番組もあるし、番組表を眺めていて気になった番組はとりあえず録画している。情報の収集手段としてテレビを遮断したわけではない。

 

それと、テレビ以外の情報収集手段として、最近になってまた新聞を取り始めることにした。新聞については以前「新聞はとにかくインタフェースが悪すぎる」という記事を書いたことがあり割と否定的だったのだけど、今ではちょっと考えなおして結構いいものだと思っている。家でダイニングテーブルに広げて読む分にはあの大きさでもいいと思うし、そうやってスペースを最大限に使って読むことを考えると、あの新聞のレイアウトもだいぶ使い勝手がいい。なので、最近は朝と夕方に時間をとって、結構楽しく読んでいる。

 

ネットの「一部」にはテレビや新聞は情弱が読むもの、情強はネットしか見ない、みたいな謎の風潮があるような気もするけど、これはだいぶアホらしい考え方だと思う。よく問題になるテレビの「やらせ」であるとか新聞の「偏向報道」と類似の問題は当然ネットにだってあるし、むしろネットのほうが激しいようにすら思える。

 

ネットの最大の問題点は、「自分の思い通りの情報が手に入ってしまう」ことだろう。たとえば、原発が危険だと思う人は「原発 危険」とか「放射能 真実」といったワードを検索窓に入れれば簡単に原発の危険性を説く記事を見つけていくらでも怖がることができるし、逆に原発が安全だと思う人は「原発 デマ」とか「放射脳」といったワードで検索して、いくらでも安心することができる。こうなると、もう情報収集は自分が「何を信じたいか」といった信念だけの問題になってしまう。

 

もちろん、ネットは速報性という点で優れているし、ネットでしか見れない情報というのも当然あるわけで、やはりネットが役に立つことには変わりがない。ただ、ネットに情報収集手段を「絞る」必要性はまったくない。新聞でもテレビでも、あるいはラジオでも雑誌でも、さらには井戸端会議でも、使えるものはなんでも使っていけばいいのではないだろうか。

 

「テレビはウソしか言わない」というのは「しか言わない」という点で間違っているし、「朝日新聞は日本を陥れることしか書かない」というのはやはり「しか書かない」という点で間違っている。まあ、これらのメディアがそう言われても仕方がないようなコンテンツをたまに配信することは事実としてあるにせよ、それを選り分けて行くことこそが「メディアリテラシー」なのではないだろうか。思い込みで情報の入り口をひとつのメディアに限定して信念の世界に生きることに決めても、それは「賢い」とは言えないはずだ。

 

「選り分ける」技術の訓練という意味では、たとえば新聞を何紙も読み比べてみるというのも面白いのでおすすめだ。別に、何紙も購読しろと言っているわけではなく、図書館に行けばタダで読み比べることができる。同じ事実から新聞によって違う結論を導いているなんてことはしょっちゅうで、簡単に見つけられるのでそういうのを眺めるだけでも一歩引いた視点が手に入る。

 

池上彰の新聞勉強術 (文春文庫)

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「立場の違い」を「実力」だと勘違いしてしまうのはかっこわるい

先日、とある用事で外出した際に、早く着きすぎてしまったのでカフェで時間を潰していた。

 

そのカフェはオフィス街にあったので、客の多くはサラリーマンのようだった。ノートPCで仕事の資料を作っている人や(余談だが、これはコンプライアンス上望ましくないのでやめたほうがいいと思う)、同僚と雑談をしている人などに混じって、少し目立つ4人組がいた。入社5、6年目らしき会社員2名と、真新しいスーツを着た学生らしき人物が2名。漏れ聞こえてくる話の内容から察するに、先輩社員とインターン生ではないかと思われた。

 

先輩社員が会社のことについて話し、インターン生がそれを聞く。こういう光景は割とよく見るが、今回は少しだけ様子がおかしかった。2名いる先輩社員のうち熱弁をふるっているのは片方だけで、もう片方の社員は退屈そうにスマホをいじっている。インターン生2人は一見熱心に話を聞いているように見えるが、「そうなんですか」という合いの手にはどことなくぎこちなさがある。

 

しばらく話を盗み聞きしていると、なんとなくヘンな空気になっている理由がわかってきた。先輩社員がランチなどの時間を使ってインターン生相手に会社での生活を語ったりすることはどの会社でもよくやられていることだとは思うのだが、その時先輩社員がインターン生に語っていた話の内容は「会社の話」というよりほとんど「自分語り」だったのだ。「俺は〜」から始まる話が異様に多く、しかも他人にとってはすこぶるどうでもいい話で、はっきり言って友人には絶対にしたくないタイプだ。もう片方の先輩社員がずっとスマホをいじっているのは、そんな同僚の態度に飽々しているからだろう。しかしインターン生2人はそういう態度を取るわけにも行かず、熱心に話を聞く「振り」をするしかない。

 

僕はこの光景を見て、「いやったらしいなぁ」と思わずにはいられなかった。世の中には「逆らうことができない立場」というものがある。たとえば、部下は上司には逆らえない。飲食店の店員も客には逆らえない。この場合で言うと、インターン生は先輩社員には逆らえない。先輩社員の「自分語り」に対して、あからさまに興味がないという態度を取ることは許されず、どんなに話がつまらなくても「熱心に聞いている」振りをして「参考になりました」とお礼を述べなければならないのだ。絶対に殴り返してこない相手をせっせと殴る光景を見せつけられたような、そんな気持ちになった。

 

これと類似の事象は、たとえば飲み会の席で上司が部下に対して行う説教であるとか、飲食店の顧客が店員に対してつけるクレームであるとか、「立場の違い」が存在する至るところで発見できる。立場が上の者は、その立場の分だけ本来の実力よりも余分に力を持つことができる。そしてより一層罪深いように思えてしまうのは、こういった立場の違いによるバイアスの存在に無自覚で、それを自分の本当の実力だと勘違いしてしまっている人たちがいることだ。こういうのはものすごくみっともないし、かっこわるいと思う。

 

今回インターン生相手にずっと自分語りをしていた先輩社員も、同じことを同期との飲み会でやったらおそらく誰も真剣に相手をしてはくれないだろう。飲み会でいつも部下に説教をする上司も、家に帰って息子に同じことをしたら煙たがられるに違いない。立場の違いによって得た一時的な力を、自分の本当の実力だと勘違いするのはみっともないことだと思う。立場に差があるときこそ、謙虚さを忘れないでいたい。

 

謙虚な心

謙虚な心