脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

校則がアホらしいということはたぶん教師もわかっている

こちらを読んで。

headlines.yahoo.co.jp

 

校則によく現れる謎の文言に「〜らしい」とか「〜にふさわしい」というものがある。僕が通っていた公立中学校の生徒手帳にも、「中学生にふさわしい服装」とか「中学生にふさわしい髪型」といった表現が頻出していて、中学生の時は大いに反感を覚えた。この手の玉虫色の表現を使えば、反抗的な生徒をいかようにでも指導することができる。こういう校則を一方的に押し付けてくる教師は、とんでもなくズルい存在だと当時は思った。

 

その頃からもう約二十年ぐらいが経過したことになるが、いま思い返しても、やはりこの手の校則はアホらしいと思う。冒頭に挙げた記事を読んで、真っ先に湧き上がってきたのは「まだやってたのか」という呆れと、現役の中学生や高校生に対する同情だ。それと同時に、僕は生徒だけでなく、教師に対しても同情した。中学生だった頃の僕は教師一人ひとりが本気でこの手の校則の妥当性を信じ込んでいて、それを生徒に対して一方的に押し付けてきているという図式でしか事象を理解できていなかったが、そういう単純な話ではないということは、もう年齢的には彼らの側にいるのでわかる。この手の校則がアホらしいなんてことは、教師自身もたぶんわかっているはずだ。もちろん、本気で校則の妥当性を信じ込んでいる教師だっていると思うが、少なくとも教師全員が校則を心から妥当だと思っているわけではないことは容易に想像できる。

 

このように、個人の見解と組織の見解に相違が生じることは、別に教師という職業に限ったことではない。たとえば、顧客からの質問に個人的に考えていることとは違う「会社としての公式回答」を使って返事をしたり、あるいは就活生からの質問に対して、人事の指導の下で「その会社の人間としてふさわしい」回答を作り上げたりすることはよくある。組織で働く以上、自分の考えたことや思ったことをそのまますべて好き勝手に話すわけにはいかない。これは時に大きなストレスの原因になる。

 

特に教師という職業の場合、一人の先生が勝手に校則の妥当性を判断して「あれには意味がない」などと言うことは絶対に許されないだろう。そんなことをすれば生徒指導の先生の顔を潰すことになる。もしかしたら生徒からは人気が出るかもしれないが、その分、職員室には居づらくなる。同僚に疎まれながら仕事をし続けるのはどんな職業であってもつらい。だから、多くの教師は組織としての見解を遵守するほうを選ぶ。今だからわかるが、教師は別に生まれながらにして教師だったわけではなく、頑張って教師という役割を演じているのだ。だから硬直的で、アホらしい校則を生徒に押し付けなければならない。これは結構、かわいそうな役回りだと思う。

 

もっとも、だからと言ってアホらしい校則をアホらしいと批判するなと言っているわけではない。むしろ、大いに批判したほうがいいと思う。なぜなら「一般人(学校の外にいる人)も大勢批判している」という事実は、教師が組織の規則に立ち向かう際に、強い材料になりうるからだ。一個人が組織の見解に反旗を翻すには、相応の武器がないと難しい。単に「私はどうかと思います」と言うだけでは(特に若い先生が言っただけでは)決定権のある年配の先生たちを説得することはできないだろう。でも、そういった勇気ある教師の背後にいる「その他大勢」の存在を感じさせることができれば、規則が動く可能性もある。

 

だから、今日も声を大にして、アホらしい校則には文句を言おう。もしかしたら、それが生徒を助けるだけでなく、先生を助けることにつながるかもしれない。

 

教師の心が折れるとき 教員のメンタルヘルス 実態と予防・対処法

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「教員は勉強を教えるだけの職業」でいいんじゃないの?

こちらのまとめが話題になっていた。 

togetter.com 

昔、教員のうつ病発症率は普通の企業に勤務する会社員の2.5倍なんて記事をどこかで目にしたことがあるが、そちらの真偽はともかく、教員に多大な負担がかかっているのは間違いない。上の記事にある16時間というのは民間なら間違いなくスーパーブラック企業で、さらには土日に部活動という休日出勤まであるのだから誰がどう考えても過労死レベルだ。

 

おそろしいのは、上の記事でツイートをしている人が特殊なケースだということでは全然なく、程度の差はあるにせよ似たようなことはほとんどの教育現場で起こっているということだ。つまり、日本の教育現場には、教員の過労死レベルの労働が構造として既に組み込まれているといえる。

 

実際、教員の業務内容は非常に多岐に渡っている。まず前提として授業を受け持つし、担任を持てば学級運営をしなければならず、校務分掌といって学校運営に必要な雑務も教員が行うことになっている。教員が相手にしなければならないのは生徒だけではなく、保護者の対応もしなければならない。そして、極めつけは部活動だ。これは明らかに、ひとりの人間がハンドルできる限界量を超えている。これらをすべて完璧にこなそうと思ったら、たとえば健康とか家庭とか、他の大切な何かを犠牲にするのはほぼ必須に思える。

 

普通の職業だったら要求過剰となるところが、教員という職業に関してはそうはならないと考えている人が多いらしい。それどころか、もっと責任を果たせという形で教員に詰め寄る保護者(いわゆるモンスターペアレント)すらいるという。昔は「でもしか先生」なんて言われてラクな職業の代名詞みたいに言われていたこともある教員だが、現代ではこんなにも厳しくつらい仕事になってしまっている。

 

そもそも、なぜ教員はこんなにもあれもこれもやらされる職業になっているのだろうか。考えてみると、現在教員の職務とされていることを、全部教員がやるのが普通というのがかなりおかしい。部活動はそれ専門の指導者を雇えばいいと思うし、学校運営に伴い生じる雑務はそれ専用の事務員がいてもいいのではないだろうか。クラス担任や勉強以外の生徒指導もそれを行う専門職に切り離す余地すらあるだろう。「教員は勉強を教えるだけの職業」ということにして授業だけやってもらい、それ以外の業務はすべて専門職に切り離すというやり方は、そんなに不自然だとは思わない。

 

本当に勉強を教えることだけに限定するのが適切かはともかく、「およそ学校と生徒に関わる物事はすべて教員の仕事」という認識では、今後も教育現場の疲弊はなくならないだろう。ブラックに働く教員を間近で見つづけることになる生徒が、「働くというのはこういうことなのか」と勘違いするおそれすらあると思う。教員のためにもならなければ、生徒のためにもならない。

 

とりあえず、最低でも部活動を教員にやらせるのはもうなしにしていったほうがいいのではないだろうか。それを専門にやっている指導者にお願いせずに、素人の教員がやったほうがいいという合理的な理由が僕には思いつかない。

 

 

教師が心を病むとき―私の「うつ病」体験から

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