脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

「教員は勉強を教えるだけの職業」でいいんじゃないの?

こちらのまとめが話題になっていた。 

togetter.com 

昔、教員のうつ病発症率は普通の企業に勤務する会社員の2.5倍なんて記事をどこかで目にしたことがあるが、そちらの真偽はともかく、教員に多大な負担がかかっているのは間違いない。上の記事にある16時間というのは民間なら間違いなくスーパーブラック企業で、さらには土日に部活動という休日出勤まであるのだから誰がどう考えても過労死レベルだ。

 

おそろしいのは、上の記事でツイートをしている人が特殊なケースだということでは全然なく、程度の差はあるにせよ似たようなことはほとんどの教育現場で起こっているということだ。つまり、日本の教育現場には、教員の過労死レベルの労働が構造として既に組み込まれているといえる。

 

実際、教員の業務内容は非常に多岐に渡っている。まず前提として授業を受け持つし、担任を持てば学級運営をしなければならず、校務分掌といって学校運営に必要な雑務も教員が行うことになっている。教員が相手にしなければならないのは生徒だけではなく、保護者の対応もしなければならない。そして、極めつけは部活動だ。これは明らかに、ひとりの人間がハンドルできる限界量を超えている。これらをすべて完璧にこなそうと思ったら、たとえば健康とか家庭とか、他の大切な何かを犠牲にするのはほぼ必須に思える。

 

普通の職業だったら要求過剰となるところが、教員という職業に関してはそうはならないと考えている人が多いらしい。それどころか、もっと責任を果たせという形で教員に詰め寄る保護者(いわゆるモンスターペアレント)すらいるという。昔は「でもしか先生」なんて言われてラクな職業の代名詞みたいに言われていたこともある教員だが、現代ではこんなにも厳しくつらい仕事になってしまっている。

 

そもそも、なぜ教員はこんなにもあれもこれもやらされる職業になっているのだろうか。考えてみると、現在教員の職務とされていることを、全部教員がやるのが普通というのがかなりおかしい。部活動はそれ専門の指導者を雇えばいいと思うし、学校運営に伴い生じる雑務はそれ専用の事務員がいてもいいのではないだろうか。クラス担任や勉強以外の生徒指導もそれを行う専門職に切り離す余地すらあるだろう。「教員は勉強を教えるだけの職業」ということにして授業だけやってもらい、それ以外の業務はすべて専門職に切り離すというやり方は、そんなに不自然だとは思わない。

 

本当に勉強を教えることだけに限定するのが適切かはともかく、「およそ学校と生徒に関わる物事はすべて教員の仕事」という認識では、今後も教育現場の疲弊はなくならないだろう。ブラックに働く教員を間近で見つづけることになる生徒が、「働くというのはこういうことなのか」と勘違いするおそれすらあると思う。教員のためにもならなければ、生徒のためにもならない。

 

とりあえず、最低でも部活動を教員にやらせるのはもうなしにしていったほうがいいのではないだろうか。それを専門にやっている指導者にお願いせずに、素人の教員がやったほうがいいという合理的な理由が僕には思いつかない。

 

 

教師が心を病むとき―私の「うつ病」体験から

教師が心を病むとき―私の「うつ病」体験から

 

 

読書が好きな人にこそ読んでもらいたい『読んでいない本について堂々と語る方法』

ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を読んだ。

 

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

 

 

本書はいかにもハウツーっぽいタイトルだが、実際には「本を読むという行為とはそもそもどういうことなのか」がテーマの読書論といったほうが本書の紹介としては適切だと思う。なので、たとえば書評ブロガーとして記事を量産するために本書を読んでも、すぐに役に立つテクニックが手に入ったりはしないだろう。もっとも、本書はそんな小手先のどこで役に立つのかよくわからないテクニックよりも何倍も意義のあるものを読者に与えてくれるかもしれない。僕の場合、普段何気なくやっている、「本を読むという行為」の意味を再考するきっかけになった。

 

日常生活で、僕たちはよくある本を「読んだ/読んでいない」という2値によって表現するが、考えてみると読書という行為はそんなにはっきりと白黒がつけられるものではない。

 

たとえば、ある本を実際に手にとってみたことはなくても、あらすじを友人から聞いて知っていたり、評判をどこかで耳にしていたり、あるいはタイトルから「なんとなくこんな話なのでは」と想像したりしている時点で、その本について何にも情報がない状態(=完全に「読んでいない」状態)に比べれば多少なりとも「読んだ」状態には近づいていると言える。

 

一方で、その本を実際に手にとって、最初から最後まで文字を全部目で追ったとしても、意味のわからないところは残るかもしれないし、さらには時間がたてばどんどん内容は記憶から消えていく。つまり、本の最初から最後まで目を通したからといって、完全に「読んだ」状態に達することはない。つまるところ、読書というのはどこまで言っても「読んでいない」状態と「読んだ」状態の狭間にいる行為にほかならず、本を完全に読むことなどは誰にもできない。

 

さらには、本によってはその本の内容自体よりも、本の書かれた時代背景だったり、他の本との相対的な立ち位置のほうが遥かに大事な場合がある。そういった本の外にある情報は、いくらその本自体を頑張って読んでもわからない。むしろ、詳しい人に解説してもらったり、あるいはその本について書かれた別の本を読んだほうがよくわかる場合だってある。目の前にある本を通読することだけが、必ずしも対象を理解するために一番よいというわけでは決してない。

 

僕は一時期、とにかく「本をたくさん読まなければ」という強迫観念のようなものに駆られて「今月は◯冊読めた/◯冊しか読めなかった」と一喜一憂していたことがあるのだけど、こういう読書の仕方にどれだけ意義があったのかは疑問だ。もちろん、まったく意味がなかったとは思わない。ただ、仮に1000冊の本の字面を最初から最後まで追ったとしても、それで「1000冊読んだ、賢くなった」と単純に捉えることは本書を読んだ今では到底できない。

 

ちなみに、本書にはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』に言及している部分があり、これがほぼ『薔薇の名前』のコンパクトな要約と解説になっている(「ほぼ」と書いた理由は本書の訳者あとがきなどを読んでもらいたい)。『薔薇の名前』はかなり大部な作品できっと挫折した人も多いのではと思うのだが、そういう人はぜひ本書のその部分を読んでみることをおすすめしたい。そうすれば、少なくとも『薔薇の名前』については読んでいなくても堂々と語れるようになるだろう。もしかしたら、『薔薇の名前』本体を最初から最後まで通読した人よりも、理解しているように見える可能性は十分ある。ある本について語るためには、その本を読まないほうがむしろよく語れるのだとしたら、読書という行為はいったい何なのだろうか?と考えずにはいられない。

 

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

 

 

薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前〈下〉