脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

就活と恋愛は似ていない。

たまに、「就職活動と恋愛は似ている」という意見を耳にすることがある。「エントリーシートは会社へのラブレターである」とか、「選考を進めていく中でお互いのことをよく知り、相思相愛になったら内定」とか、そういう話を聞いたことがあるという人も多いだろう。

 

果たして、本当に就活と恋愛は似ていると言ってよいのだろうか。たしかに、「出会い→お互いを知る→相思相愛で内定」というプロセスを見せられると、なんだか同じような気もしないではない。しかし、こんなふうに双方が情報収集をしつつ合意が形成された時点で契約成立となるのは、別に恋愛や就活に限った話ではない。ヤフオクで物を買うのだって同じようなプロセスを辿る。それに、恋愛と就活では同じではないと思われる点も数多く存在する。

 

例えば、就職活動では、就活生は何社も併願して企業を受けるのが普通だ。ひとりで数十社受けることも珍しくない。これを恋愛にあてはめると、ひとりで数十人を同時攻略しようとしていることと一緒になる。もっとも、企業側も何人もの就活生と日々面接し、合格不合格を決めているわけで、同時攻略という点では学生以上に激しい。こういう状況は、普通の恋愛ではあまり考えられない。

 

あるいは、「期間が決まっている」という点でも、就活は恋愛と大きく違う。就職活動の場合、いわゆる就活解禁の日からせっせと活動を開始し、基本的に大学を卒業するまでにはどこかから内定をもらわなければならない。恋愛の場合は別に開始時期はないし、期限もない。ピンとくる人がまわりにいないというのであれば、無理に彼氏・彼女を作る必要はない。恋愛はしない自由が担保されている。一方で、就職活動の場合、多くの人にとってしない自由は担保されていない。

 

そういうことなので、就職活動に対して恋愛と同じレベルの「誠実さ」を求めるのはおかしいということになる。もちろん、就職活動においても「誠実さ」は必要だが、それは契約社会において求められるレベルの「誠実さ」で事足りる。例えば、どんな会社を受けても「御社が第一志望です」と答えろとか、「心が決まってないなら最終面接に来るな」とかいうのは(参考:こんな就活生はイヤだ。)、本来は応じる必要のないレベルの「誠実さ」だと言える。

 

ちょっと前に、タレントの神田うのが1人で100社受験せざるをえない就活生に対して「100通も(応募書類を)会社に送って失礼な話よ」「結婚なんて1人としかできないんだから。この1社と選んで」と苦言を呈して軽く炎上していたが(参考:神田うの、就活学生に苦言呈してまた炎上……「世間知らず」とバッシング受ける )、これも似たような話だ。就職活動に対して恋愛や結婚なんて喩えを持ち出すと、最終的には「就社」のような事例を「最高に誠実な行為」として肯定することにすらなりかねない。

 

思うに、「就職活動と恋愛は似ている」論を唱えることで、就活生側が得することはあまりない(企業側には都合がいいのかもしれない)。「面接はデートと同じ」とか言われても腹が立つだけではないだろうか。デートなら楽しいだろうけど、果たして面接も同じように楽しいのだろうか。あまり、ヘンな喩えには引きずられないようにしたいものだ。

 

 

企業が欲しいのは優秀な人よりも洗脳しやすい人

企業の採用試験を、純粋な能力試験だと勘違いしている人がいる。

 

もちろん、採用試験で能力が一切見られていないというわけではない。能力が高い、優秀な人はたしかに採用されやすくはある。しかし、優秀であればどんな会社でも無条件で内定がもらえるかというと、そんなことはない。能力がある人が、「社風に合わない」みたいな理由で落とされることは実際普通にある。

 

企業にとっては採用者の能力なんてある一定水準を超えてさえいれば割とどうでもいいことだったりする。もちろん、優秀であるに越したことはないのだけど、それ以上に重視されるのが「その会社でその人はうまくやっていけるのか」という要素だ。この要素は「社風にあっているか」と言い換えてもいい。

 

社風に合っているかどうかがよくわからなくても、企業がその人を自分のところの社風に「洗脳しやすい」と判断されれば採用されることになる。研修なり、職場の空気なりを使って、最終的に「会社の人間」に仕上げられるならそれでもいいからだ。逆にどんなに優秀な人であっても、我が強くて染めようがないというのであれば、採用は見送られることになる。

 

この傾向は、新卒採用では特に強いように思う。そもそも、学生が優秀かどうかなんて数回面接したぐらいでは普通はわからない。学生時代の成績がよくても、仕事が同じようにできるとは限らない。意識高い系学生団体でビジネスごっこをしていたからと言って、優秀だというわけでもない。インターンなどを実施すれば「優秀さの片鱗」ぐらいはわかるかもしれないけど、それをやるには結構なコストがかかるし、実際に仕事をさせてみたらやっぱり全然優秀じゃなかったなんてこともある。学生の「仕事の能力」を見極めた上で採用をするのは、結局のところ「不可能」ということになる。

 

一方で、「洗脳しやすさ」を見極めることは「能力」を見極めるのに比べたらカンタンだと言える。社長や人事の話に感化されやすい人はそれだけ染まりやすいということになるだろうし、面接などで少し長く話せばその人が「会社の人間になる適性があるか」ぐらいだったらある程度はわかる。

 

正直、新卒採用を行うような規模の会社にとっては、採用する学生がすべて優秀な人でなければならないなんてことは全然ない。1人ぐらい優秀な人を採用し損なったとしても、それは全然大きなダメージではないのだ。一方で、会社の空気を乱す人間や、会社の指示に従わないような人間は、たとえ1人でも採用してしまったら大きなダメージになる。だから面接では「能力」よりも「会社の空気に合っているか」「会社色に染めやすいか」が何倍も重視される。いくら採用担当人事が「優秀な学生を取りたい」とかなんとか言ったところで、会社が本当に求めているのは洗脳しやすいソルジャー社員なのだ。

 

こんなふうに考えると、採用試験は純粋な能力試験とは到底言えないことになる。たとえ不採用になったとしても、それは能力不足が原因とは限らない。「面接の結果、あなたを洗脳するのは難しいと思いましたので採用は見送らせていただきます」ということだって全然ありうる。そういうわけなので、あまり気に病んでもしょうがない。

 

あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。
 

  →「はじめに」(p1-6)を読むことができます。