脱社畜ブログ

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上限100時間の残業規制でも、ないよりはあったほうがいいと考えるべきなのか?

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www.nikkei.com

こちらのニュースを見て、思わず考え込んでしまった。最初に言っておくと、僕の中で明確な結論が出ているわけではない。

 

まず背景を復習しておくと、現行法では36協定さえ結んでしまえば残業時間が青天井に設定できるのだが、これに上限規制を設けようという動きが起きていた。これ自体はとても良いことなのだが、その上限値をどうするかについて議論があり、年間を通じた上限値については月平均60時間の合計720時間ということで労使間の合意が取れていた。

 

問題は繁忙期の上限値で、政府案では100時間が提示されていたが、当初連合はこれに反対していた。それもそのはずで、厚労省の定めた過労死ラインは月80時間である。100時間はそれを20時間上回るわけで、繁忙期だからといって過労死ラインを上回る上限値を設定するのは、値の設定の仕方として明らかにおかしい。これでは生命を危機に晒す労働を政府は容認していると取られても仕方がない。反対するのは当然だ。

 

それが、上の記事では「100時間で容認方針である」となっている。連合の神津里季生会長は、これについて以下のように言っている。

「上限時間を罰則付きで決めることは労働基準法の70年の歴史にも極めて大きな改革だ」と強調。繁忙期の100時間案についても「(労使で)時間と時間で綱の引っ張り合いをするのは問題の性格からすると違う。胸襟を開いて率直に話したい」と柔軟姿勢を示した。

 

この発言は理解に苦しむ。「時間と時間で綱の引っ張り合いをするのは問題の性格からすると違う」というのがよくわからない。そもそも、交渉事というのはお互いの妥協点を探るものであり、つまりは典型的な綱の引っ張り合いだ。それをせずに「大きな改革だから」という理由で相手の案をそのまま呑むというのでは、仕事を放棄したと言われてもしかたがないだろう。

 

まあ連合会長の批判はともかく、このニュースを読んで僕が考えてしまったのは「上限100時間の残業規制でも、ないよりはあったほうがいいと考えるべきなのか?」ということだ。過労死基準を超える値が法律の上限値として設定されていることには疑問が残るが、たとえ100時間でも上限が設定されれば、たとえば月200時間とか正気の沙汰とは思えない残業を強いられている人はだいぶ助かることになる。そういう意味では、どんなに緩い規制でも、ないよりは当然あったほうがいいと考えられる。

 

しかし、一方でこのタイミングで実効性のある値を設定すべきという意見も一理あると思う。漸進的に値を改善していけばよいと考えている人も多くいるようだが、はじめの一歩はとても大事だ。どんな値であっても、実際に罰則つきの規定を設ければ「一定の改革が行われた」と判断され、そのまま世論が下火になる可能性は少なくない。その状態で上限を下げていくのは決して簡単なことではない。

 

ヘンなたとえだが、給与交渉をするなら入社時がベストである。入社してから「給料を上げてくれ」と言っても、会社はなんだかんだと言い訳をして上げてくれないものだ。言い方は悪いが、実効性のある残業時間の上限規制を入れるなら今がチャンスだ。あとで「もっと上限時間を下げよう」と言ったとして、すんなりそれが受け入れられる未来はあまり見えない。

 

果たしてどっちの道が正しいのか、冒頭にも述べたように僕自身はまだ明確な結論が出ているわけではない。ただ、いわゆる「働き方改革」が前途多難であることだけは強く感じている。