脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

できる人をたくさん集めただけではチームはうまくいかない

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こちらの記事を読んで、ちょっと思うことがあった。

d.hatena.ne.jp

「できる人はできる人と一緒に仕事したい」というのはたぶん本当だ。まだ会社で働いていたころ、採用担当者が「優秀なエンジニアをたくさん採用するためには、優秀なエンジニアをたくさん採用する必要がある」という循環論法っぽい話をしているのを聞いたことがあるが、たしかに優秀な人が在籍している会社はその事実だけで採用力が上がる。

 

実際に就職してから本当に一緒に働けるかはともかく、「あの優秀な◯◯さんが働いている会社なら、きっといい会社なのだろう」という推定には一定の納得感があり、かくして勢いのある会社には優秀な人が次々と集まり、逆に優秀な人が辞めていく会社からは人がどんどんいなくなっていく。たとえば、かつてのソーシャルゲーム系ネット企業が人材を大量に集め、そして大量に失っていった一連の流れの裏にはこの「できる人」の大移動があったのだと思う。

 

このように「できる人ができる人を惹きつける」ということもあって、企業はとにかく「できる人」を欲しがる。ただ、よく考えてみると、この「できる人」というのはだいぶ曖昧な言葉である。果たして、どのような人が「できる人」なのか、百人いれば百通りの「できる人」のイメージがありそうだ。そういえば昔、何かのワークショップで「優秀さとは何か」というテーマでグループディスカッションをしたことがあるが、その時も何をもってその人を優秀と見るかには、人によってだいぶ差があった。ある人はとにかく地頭の良さが大事だと言い(この「地頭の良さ」というのも何を指すのかだいぶ曖昧だ)ある人は言わなくてもわかる「察しの良さ」が大事だと言った。議論がどういう結論に着地したのかは、残念ながら覚えていない。

 

思うに、仕事の能力というのは単純には定義できないものがある。それでも、たとえばコードを書くのが他の人よりも圧倒的に早いとか、ある特定の領域について深い専門知識を持っているとか、オープンソースプログラミング言語のコミッターであるとか、ウェブサービスをひとりで全部まるごと作り上げて大量のトラフィックを捌いてたとか、こういう人たちは「できる人」として分類されることが多いような気がする。では、このような「できる人」を大量に集めれば、採用は成功かというと必ずしもそうではない。

 

会社でやる仕事のほとんどは、個人ではなくチームで遂行される。チームで仕事をする場合、個々人の能力が高いことはもちろん歓迎されるが、実はそれ以上にチーム内でうまく協力体制が築けるかが重要だったりする。いわゆる、協調性というやつだ。たとえば、あるチームで一人だけ能力が抜群に高くても、その人が他のメンバーとうまくコミュニケーションが取れずにチーム内の不和を誘発するようであれば、仕事が残念な結果に終わることも少なくない。僕はそれで頓挫したプロジェクトをいくつも知っている。逆に、個人レベルで突出した能力を保持している人がチーム内に一人もいなくても、チーム内の関係が悪くなければ、それで案外よい結果が出たりもする。

 

大事なことは、採用の際に「できる人」を採用することばかりに囚われて、個人としての優秀さばかりを見ないようにすることだ。仮に個人としていくら優秀であっても、会社のカルチャーにフィットしないとか、あるいは他のチームメンバーに害を与えそうであるとか、そういう場合にはいくら能力があっても、採用しないという勇気が必要だ。そんなことはあたりまえだと思うかもしれないけど、「優秀な人材を採用したい」という意識が強くなりすぎると、その人がチームや会社にどういう影響をあたえるか?という視点が抜け落ちてしまって「優秀だけど、チームにとっては害となる人」を採用してしまうことが少なくない。

 

個人的な経験では、「能力が突出して高い人」よりも「能力が高くなくても、その人がいるとチームの雰囲気がよくなる」ような人のほうが実は中長期的には組織によい影響を与えることが多いのではないかと思う。もちろん、能力が高くて、さらにはその人がいるだけでチームの雰囲気がよくなる人が理想的なのは言うまでもない。そういう人こそが、本当の意味での「できる人」なのだろう。でも、こういう人をたくさん集められる会社はどれだけあるのだろうか。

 

採用基準

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