脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

学歴の有無と常識の有無

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飲食店従業員twitter炎上問題から、なぜか低学歴・高学歴論争のようなものが発生しつつあって、「それ絶対、話がどんどんズレていってるよ」と思いつつも、ちょっと自分自身の整理も兼ねて考えたことを書いておく。

 

とりあえず関連エントリ的なもの。他にも、この件で学歴に関して書かれたエントリはたくさんある。

 

「自分たちの世界だけで完結する」を学歴問題にしないほうがいい
http://artifact-jp.com/2013/08/08/educational-background/
低学歴低学歴うるせぇよ
http://akio6o6.hateblo.jp/entry/2013/08/09/104758
「低学歴」って言うな。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130810

 

まず、冷蔵庫に入ったり食品をくわえたりして、それをtwitterにアップして炎上するような人たちをなんと呼ぶのが適切か。前のエントリでは僕はあえて「バカ」という呼称をしたのだけど、とりあえずここでは「非常識な人たち」というように呼ぶことにする。

 

さて、学歴論争へと発展してしまったのは、このような「非常識な人たち」を、コンビニ店長さんが「うちら」の世界というエントリで「低学歴の世界」と呼称したことが発端だ。そこから低学歴に関するエントリがたくさん生産された。コンテキストを考えるに、ここから学歴の話を広げまくるのは店長さんの意図するところではないと思うのだけど、あえてこのセンでそのまま考えてみる。

 

「非常識な人たち」=「低学歴な人たち」なのだろうか。これは明確に否である。非常識であることと低学歴であることは同値ではない。学歴と常識の有無に論理的な関連性はない。高学歴だけど非常識な人とか、低学歴だけど常識的な人とか、反例はさがしてくればいくらでも見つかる(早稲田のスーパーフリーとか、日吉駅を全裸で疾走して逮捕された慶應生とか、未成年飲酒で救急車を呼ぶ東大生とか)。

 

もっとも、統計的にその傾向が否定できるかというと、これは残念ながら否定できないのだと思う。学歴が低い人の中の非常識な人の割合と、学歴が高い人の中の非常識な人の割合を比較すると、おそらく前者のほうが多くなる。このあたりの事実が、「低学歴」というレッテル貼りに繋がっているのだと思う。

 

ただ、この相関は擬似相関である。「学」が常識・非常識を直接分けると考えるのは大学における教育内容などを考えるに妥当ではないからだ。大学には別に道徳の授業はない。受験勉強をすることで、道徳観が滋養されるということもない。冷蔵庫に入らない、売り物の食品を食べないという話は親の教育、言ってしまえば「育ちの良さ」あたりに起因する問題だ。そして、この「育ちの良さ」は、現代日本の学歴形成に裏で無視できない影響を与えている。

 

以前、大学受験は公平だという話をどこかで書いたことがあると思うのだけど、これは試験というレベルにおいて公平だというだけであって、実際には親の資本力にかなり左右されてしまうという現実がある。金持ちの家に生まれた場合と、お金がない貧乏な家に生まれた場合とでは、東大に入る難易度はかなりの開きが出る。金持ちの家に生まれれば塾も通い放題、家庭教師だってつけ放題だ。高校もいいところに行ける。一方で、お金がないと塾には行けない、家庭教師もつけられない。高校の授業が学級崩壊気味だという可能性もある。かなり奮闘しないとそこからは抜けられない。

 

問題があるとしたら、僕はここだと思っている。学歴についてのレッテル貼りももちろん問題なのだけど、それ以上に「親の資本力」≒「育ちのよさ」がそのまま学歴に反映されてしまっているという現実はやはり問題だ。裕福な家に生まれるとそれで進学も有利になって、いい大学を卒業すると就職も有利になって、それで高収入を得て子どもも塾に通えて進学で有利になり……というのは社会学でいうところの「階級の再生産」の話なのだけど、この手の再生産は、日本では間違いなくいたるところでされている。

 

「子供は社会で育てる」という考え方がある。今は、子供を育てているのは親だ。そのせいで大きなハンデ戦になってしまっている。社会の力で、階級を突破する割合いを増やさないと、「学歴」が資本力の裏返しであるという事態は変わらない。

 

ここまで書いて、やはり当初のtwitter炎上事件とは話がズレまくってしまったことを後悔しているのだけど、せっかく書いたので投稿しようと思う。

 

学歴分断社会 (ちくま新書)

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