脱社畜ブログ

仕事観・就職活動・起業についての内容を中心に、他にも色々と日々考えていることを書き連ねていきます。

ブラック研究室という闇

ブラック企業大賞のノミネートが発表されたということで、企業一覧を見ていたら民間企業ではない「東北大学」の名前があった。

 

ブラック企業大賞2013 ノミネート企業8社とノミネート内容
http://blackcorpaward.blogspot.jp/p/blog-page_12.html

 

これを見て、ふと大学にもブラック企業類似の問題があるということを思い出したので、今日はそれについて少し書きたい。

 

突然だが、みなさんは「ブラック研究室」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「ブラック企業」という言葉はもうかなり一般用語として定着した感があるが、「ブラック研究室」という言葉は、関わる可能性がある理系の大学生・大学院生以外にはあまり馴染みのない言葉なのではないかと思う。

 

もっとも、字面からどんな研究室なのかは大体想像がつくだろう。ブラック研究室では、ブラック企業も顔負けの労働に従事することを学生が強いられる。朝から晩まで研究室にいるのはあたりまえ、時には泊まりこみもあり、土日もろくに休めない。教授や助教から立場の違いを利用した嫌がらせ(いわゆるアカハラ)を受けることもしばしばで、僕の知り合いにもブラック研究室に悩まされている人はいた。

 

ブラック研究室は、ある意味ではブラック企業より厄介だとも言える。まず、研究室内の学生の研究活動には労働基準法は適用されない。そもそも、学生は賃金をもらうどころか、学費を払っている側だ。教授からすばらしい指導が受けられればそれは学費を払うに値するだろうが、中には学生を無料の若い労働力程度にしか思っていないんじゃないか、というような教授方もおられる。ブラック企業なら最終手段として転職という手があるが、ブラック研究室にはそういう選択肢はない。どんなに酷い環境でも、学位記が欲しければじっと耐えるしかない。

 

もっとも、実験系や生物系などでは、研究室にいる時間が長時間に及ぶことはある意味やむをえない場合もある。本当に研究をするために、覚悟があって望むのであればそれはいい。思いっきり勉強や研究をしたいという人を止めるのは野暮だ。ただ、日本の場合は、研究室での仕事は必ずしも純粋な研究活動だけとは限らない。よくわからない雑用が課せられることもある。そして、このような研究とは関係ない活動のためにブラックな労働を強いられているのであれば、それは到底許されることではない。

 

僕は、ブラック研究室が、ブラック企業で働くことの準備段階として機能してしまっているという可能性も、場合によってはあるのではないかと思っている。実際、学生時代にブラック研究室に所属していた人が就職して、毎日深夜残業続きなのに「研究室時代と違って、土日は結構休めるし、それにお金がもらえる!」と言いながら嬉々として働いている人を僕は何度か見たことがある。これには酷く胸が傷んだ。彼はいままで、一体どんなところにいたのだろうか。

 

研究室に所属することになる学生さんは、どうか適当に研究室を決めるようなことだけはしないでほしい、と思う。研究室配属の前には一度見学をして、しっかりと話を聞こう。話を聞く際には、教授や助教からだけでなく、学部生や修士の学生からも話を聞くことを忘れてはならない。配属前は研究室のポジティブな情報だけでなく、ネガティブな情報もしっかり集めることが大事だ。

 

ちなみに、研究室がブラック研究室かどうかを見抜くために、結構使える指標がある。その研究室の学部生が、修士課程に進学したあと同じ研究室への配属を希望する割合を測定するのだ。「院では違う研究室」という行動をとる学生ばかりのところは、正直危ない。話が聞けるなら、「なんで院では違う研究室にしたんですか?」と聞いてみるといいかもしれない。

 

博士漂流時代  「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)

博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)

「意識高い系」というおたふく風邪

僕は今でこそ「意識高い系」の学生は苦手であるが、告白すると自分も「意識高い系」っぽい考え方をしていた時期がある。といっても僕が発症していたのは大学生の時ではなくて、高校生ぐらいの時だ。自己啓発的な本やビジネス本などを読み漁って、成長しようと思ったりしていたことが本当に一時期だけどあった。この前、実家に帰ったらそういう本が本棚にまだ置いてあるのを発見して、布団に顔をうずめて足をバタバタしたくなったりした。即ブックオフに持って行って処分してもらったことは言うまでもない。

 

人材コンサルタント常見陽平さんが書いた『「意識高い系」という病』という本があるが、この本でも著者はかつて自分が意識高い系であったことを告白している。「意識高い系」に批判的な人は、自らもかつては意識高い系だったという過去を持つという場合がおそらく少なくはない。

 

意識高い系という病気には、形や時期は差があるものの、誰もが罹るものなんじゃないかと最近は思っている。大人になってから昔の自分のことを振り返って、「なんで昔はあんなふうに考えていたんだろうなぁ」と思ったりした経験は、割と誰でもあるのではないだろうか。過去の自分は他人のようなものである。当然、今の自分には理解できないような行動もとる。

 

 

そして、この「意識高い系」という病気は、おたふく風邪に似ているような気がする。おたふく風邪は、大人になってから罹ると重症化すると言われているが、意識高い系という病気も、大学生になってからとか、あるいは会社に入ってから罹ったりすると非常に残念な感じになる。一方で、中学生とか高校生とかで罹っても、それはいわゆる中二病の延長のようなものに過ぎず、あとで思い出して恥ずかしくなってしまうことはあったとしても、後の人生に禍根を残したりはしないだろう。

 

大学生であっても、1年生とか2年生といった、早い段階で罹患して、3年生ぐらいで正気に戻るとそんなにこじらせなくて済む。逆に、就活の時期ぐらいに合わせて意識が高くなると、かなりやばい状況になる。大学生活中に「意識高い系」という病気に罹るなら、なるべく早いほうがよい。

 

僕が通っていた東京大学には進学振り分けという制度があって、とりあえず二年生までは駒場キャンパスというところで一般教養の勉強をする。その後、専門課程に進学し、今度は本郷キャンパスで勉強をする。駒場(1、2年)で意識高い系という病気に罹った人も、本郷(3年以降)で正気に戻るということが結構ある。一方で、本郷に来てから意識高い系が発症すると、基本的には治る機会がないので大変である。学生主導の就活支援団体なんかが本郷にはいくつかあったが、大体はこの系列だと僕は思っている。

 

もちろん、前回書いたように、「意識高い系」もその大言壮語に見合うだけの実績をあげれば、それはもはや「意識高い系」ではなくなる。中学生や高校生に比べて、大学生とか会社員のような大人のほうが、やれることは格段に多い(お金も稼げる)。それゆえ、「大人の意識高い系」がいけない、と一概に言えるわけではない。ただ、努力の方向は間違えないでほしいと思う。